刀剣本来の価値をお届けします。 HOME
短刀・槍・その他

短刀

備前国住長舩源兵衛尉祐定 永禄五年八月吉日

商品番号 : D-014-S-085

室町後期 備前 特別保存刀剣 白鞘・拵付

売約済

刃長:26.4 cm 反:なし 元幅:2.60 cm 先幅:1.80 cm 重ね:0.65 cm 目釘孔:2つ

体配
平造、庵棟、生中心、鑢目は勝手下。指表に素剣、指裏に護摩箸を彫る。
地肌
小板目肌を良く詰み、杢目が交じり、精美な肌合いを見せる。
刃文
焼幅頃合いで中直刃調の小乱交じり。匂口は締り心の匂出来、刃先側がほつれ気味になり小足が所作し、匂口に絡むように金筋が現れ、砂流風の所作もある。
鋩子
直調から小上がりに弯れ、少し長めに伸びて中丸となってかなり深く返る。指裏の返先あたりに飛焼風の所作がある。

本短刀の登録は昭和26年の3月、いわゆる大名登録とされる一振ですが、それを元に持ち上げるようなことはしません。(元大名を始め格式高い家のものだったとしても、出来の良い物もそうでない物もあるのです。)そんな本短刀ですが、長さと重ねといった体配から見て、短刀なのか鎧通しなのか用途がどっちつかずの姿。おそらく、少し長めで重ねも薄めなので、殿中で使用した護身用の小刀・小脇指の部類かと(そんなことはどうでもいい!と・・・おっしゃる通りです)。ま、俗銘入りですから、注文打で所持者は高い身分であったということが想像できます。時代は戦国期の室町後期・・・信長が台頭し始めたころでしょうか。そう考えるとそれなりの武将が持っていたとしても不思議ではありません(妄想は楽しいものです)。
この手の短刀は、新々刀にもわずかにありますが、ほとんどが末古刀の時代に作られており、数も少なく、かつ、良い状態で残されているものは決して多くはありません。本短刀はというと、おお〜かなり健全です。もちろん、切先はやや内反気味でそれなりの研減りは見られるものの、重ねの減りからも良い状態といえます。肌合いも密に詰んだ地肌は精美で、俗銘入りなりの作であるであることに頷けます。天正頃に近い永禄年紀の作でこの見事な地肌、鉄の質が悪い云々、この頃の祐定は云々なんて評価は当てはまりません。

中直刃に見える刃文は、小乱が交じって意外に動きがあり、刃先側がほつれ気味で締まり心の柔らかい匂口。そこに小足が働いて、細い金筋が匂口を跨いだり絡んだりするあたりは備前物というより来?、いえ、どちらかといえば粟田口に近いような・・・・注文主の依頼による写物でしょうか。当店の目の錯覚かもしれませんが、喰違刃風に見える個所さえあります。もちろん、叢もなく刃縁も冴えて上出来の一振。気になるといえば、指裏の鋩子の返の返先あたりにある丸い飛焼風の所作でしょうか。指表側の返も直調ではなく小乱風となっていることを考えれば、この飛焼風の所作は小乱が大きく出てしまった跡かもしれません。鋩子の返は意図的でしょうから、この飛焼風の所作もその範疇と考えましょう。良し悪しは別としてアクセントになっていることは確かです。
勝手な推測ですが、源兵衛尉の粟田口写(あるいは来写)、本当だったら面白いです。まあ、それを否定する材料もありませんし、実際、与三左衛門尉にも古刀の写とされるものがあり、200年以上もある時代差を考えれば、室町期の刀工が鎌倉期の古刀を写すのはごく自然なことだと思うのですが・・・。
本短刀にはかなり手の込んだ拵がついています。鞘自体は明治期の作と思われますが、金具は赤銅と角の一作造。桜の花を濃淡で散らし、鞘には流水に桜を金・銀・素銅(四分一かも)で描いています。柄の鮫皮にある親玉はおそらく無垢で入子ではないと思われます(これだけでもかなり贅沢)。小柄と笄は柳川直光の門人・菊岡光行(江戸後期)の夫婦鶴図をあしらった二所物、目貫は作者が不明ですが、やはり鶴の立姿図。鐔は浜野正信の門人・信寿(号・水竜子/江戸後期)による赤銅の喰出鐔で、流水に貝を金色絵であしらった作です。作行はともかく総体に豪華なフル装備の組み合わせ。う〜ん、こだわりましたね。

ページトップ