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INTELLIGENCE

♮ 在光(ありみつ)の生樋(うぶひ)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

本刀は在光という現存品の余り多くないものですが、おそらく在光の銘は何代か続いていると思われます。殊に、経眼した在光の中では文明十八年紀の大身槍と永正七年紀の脇指が記憶に残っていますが、『銘鑑』には天正頃までの記載もあり、何代か続いていたとみるべきでしょうか。また、永正頃の在光は出雲守を受領したとされ、その押型もあるようですが、私は受領銘入りの作例の経眼は今までにありません。ただ、永正頃の受領というと美濃国・和泉守兼定(之定)と同じですが、永正頃の末備前のトップである与三左衛門尉祐定に受領(守など)はなく、逆に現存刀の少ない在光が受領しているという点で、何らか特別な事情が介在しているとしか考えられません。

 

 

刀  銘
備前国住長舩在光作
永正十七年八月吉日

刃長/二尺三寸一分八厘、反/七分五厘、本造、行の棟、中心は殆んど生で孔は二つ。
 
 
[地肌]
小杢目肌に板目肌交じりで、肌立ち気味となる。鎺元から移が立つ。
[刃文]
匂出来、五の目丁子乱で腰が開いた乱の連続となり、やや不整いな感がある。
刃中に足がよく所作し、匂崩も所作する。
[鋩子]
乱込でやや深目、先は小丸で返は少し。

 

さて、本刀は表裏に棒樋がありますが、中心先まで掻通(かきとうし)であり、この点について少し述べさせていただきたいと思います。

本来、末備前は中心の鎬地から刻銘し始めますが、本刀は中心の平地にのみ刻銘しています。という事は、この銘は正真ですから、中心の鎬地には何らかの細工を施す予定であった事になり、棒樋は最初から中心先まで掻通にするつもりでの作刀という結論になってきます。つまり、本刀の樋は本刀製作時に存在していたのであり、全くの生樋であることになります。この点が極めて重要なのです。

 

中心先まで掻通にしない、つまり区下で掻流、または区上で丸留・角留にした樋を全て後樋とは断定出来ませんが、世上、本刀のように中心先まで掻通にした作例とそうではない作例では、前者の作例は多くはなく、むしろかなり少ないのです。したがって、生の棒樋ですから、後世になって結果的に皮鉄を削って彫る樋(後樋)ではなく、推測ですが火造の段階で樋を造形している、いわゆる打樋なるものに相当するのではないかという可能性も推測出来ます。つまり、大変な手間のかかった製作であると考えるべきでしょう。したがって現存がかなり少ないという結論になってくると思います。

また、皮鉄を削って彫った後樋は構造的に弱く、実用本位の時代では絶対に考えられないでしょう。勿論、生樋であっても区あたりで樋をとめることは構造上、刀身が弱くなる事は自明の理であり、中心先まで掻通にすると、打突による衝撃は刀身全体で平均に緩和しやすくなる理屈です。

 

私の経眼した中で、応永備前以降の作で、中心先(尻)まで掻通にした構造や、中には添樋、連樋も同様にしてある作例で、不出来な作はまずなかったという記憶があります。

いずれにしても、武器としてのリコールを受けない事が最重要です。そうしないと、長舩刀工の繁栄は続かなかったのであり、長舩は数百年にわたり繁栄し続けた化け物的な存在であるとも言えます。
(文責・中原信夫)

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