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♮ 肥前刀工と出羽(いづは)鉄について

Copywritting by Nobuo Nakahara

肥前刀工が使用したと思われる石州出羽鉄を、現地の石州へ直接調達のために行くための路銀の借金を藩に申込んだ文書が『肥前の刀と鐔』に掲載されています。

そこには「はがね調之の為、石州へ罷越す用に御座候」とあり、さらに「天和弐年戌十二月十五日 橋本近江(印)同河内(印)同陸奥(印)同備中(印)」とあります。つまり、「橋本近江」以下は近江大掾忠広、(二代)河内守正広、(三代)陸奥守忠吉、(三代)備中大掾正永(正広)の事です。

 

では路銀(旅費)も日数もかかる遠地に刀工の四人がわざわざ直接行ってやりたかった事(目的)とは一体何でしょうか。「はがね調之の為」とありますが、おそらく天和以前から大坂あたりの鉄問屋等を通して大量に買いつけていたはずですから、それで別に問題はない筈ですが、品質的にクレームがあるとも考えられませんが、ひょっとすると、出羽鉄の性質が天和直前頃から変ったのか、あるいは、忠広(刀工)側からこのような性質にしてくれとかという要望を直接、現地に行って談じ込んだかのいずれかしか、原因(理由)は考えつきません。

それに、十二月という時期ですから、要求が通っても藩からの支給は翌年となるでしょうし、その頃、つまり翌年の天和三年春となれば、時期的に鍛錬に忙しい筈。

刀工の鍛錬作業では火を使って極めて暑くなるので、一年の内、おそらく暑い季節の四ヶ月位は火を使う工程は休業し、他の工程作業しか出来ないと考えられます。ですから、鍛錬で忙しい時期の四人の出張は、当然考えられないし、もし出張したら当然半月位は佐賀に不在となります。

 

そこまでの代償を払い、そして藩からの借金は何回かに分割して現物(大小五拾腰)にて返済としているのですから、この石州行は余程の大事であったという結論になります。同書では「忠吉系の鍛冶が刃鉄に石州の出羽鋼を使用していて、その仕入れにわざわざ石州に出向いている事実を示す」としていますが、それよりももっと重大な裏事情があったと見るべきでしょう。

 

因みに、出羽鉄の値段交渉なら、役人の方が上手で慣れている筈ですし、計算も得意でしょう、あるいは、値段交渉もさる事ながら、石州にはタタラが何カ所もあった筈ですから、仕入先を変更したかったのか、ならば新しく買入れるタタラの鉄の性質をある程度以上は見極めておかないと後々の仕事に支障をきたす事にならないとも考えられますが、それは役人では実際の事はわからないでしょうし・・・。

それと、「毎年仰付けられ候新身刀脇指代銀の内より、段々返上仕る可く候」と文書にあり、「御参勤御用新身大小五拾腰代銀にて御引留成らる可く候」との文書は非常に興味が出てきます。刀工と鍋島藩との雇用システムを示しているのでしょう。
(文責・中原信夫)

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