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♮ 肥前刀工への入門について

Copywritting by Nobuo Nakahara

先般、伊予国宇和島の刀工について、色々と文献を漁っていると、『刀剣美術』(第一一六号・昭和41年・(財)日刀保編)に「郷土刀工 駿河守国正の研究」と題した愛媛県の末光高義氏の研究稿に興味ある記事があったので少し引用します。

 

宇和島(伊達家十万石)には国正という刀工が寛文頃より存在し、この国正は駿河守受領で西本市右衛門、江戸の大和守安定の門人です。宇和島伊達家の祖・伊達秀宗は仙台・伊達政宗の長子(庶子)であるが、大和守安定は仙台伊達家とは縁があり、安倫の師でもあるからでしょう。宇和島から安定への入門にもそうした点が十分に考えられます。

さて、この宇和島刀工・国正の六代目国正が、当時の肥前忠吉に入門し、五年間修行して帰郷している文書があるようで、前述の研究稿よりそれを引用すると・・・

一、拙者流儀刀剣鍛冶方多年熱心就稽古上達奥儀並相伝候件如誓盟一子相伝外他聞不可有之候仍而忠之一字遣候也

  七代 橋本近江守 忠吉(花押)

  文化十二年亥年十一月八日

  六代 西本藤吾殿

とありますが、この文書の実物を見ていないのでご了解いただきたいと思います。というのは、この文書中には?があります。つまり、“七代 橋本近江守 忠吉”とありますが、七代の受領はなく、さらに七代忠広(忠吉銘もない)は六代近江守忠吉(文化十二年十二月六日・八十歳没)没後すぐの、文化十三年・四十六歳没です。すると。この七代橋本近江守忠吉は、まず七代ではなく六代となってくるしかありません。では六代近江守忠吉はこの文書の日付では死去前一ヶ月であり、高齢でもあり、実際は国正を指導出来なかった筈です。したがって、子の七代目忠広が実際は指導したとみるしかありません。いずれにしても細かい差違はあるにしても、文化頃の肥前刀工に六代目国正は入門していた事は事実と思われます。

 

実は何故この文を引用したかというと、本当に肥前刀工が、というより鍋島家側が他国の技術者を受入れたのが私にすれば不思議であったのです。他国の技術者(刀工・職人)を肥前刀工房に受入れれば、何らかの作刀工程の技術が流出することは明らかです。まして江戸後期ならばとも思いますが、江戸初期〜中期にかけて、私が知るだけで筑後国の忠親(行広の弟子とされるが)や忠親と同じ越前出身ともいわれる伊賀守菊平などが肥前刀工に入門しているとされていますが、疑念はあったのです。

したがって私は以前から、本当に鍋島家側が受入れたのかどうか疑念を持っていたのですが、今回の宇和島の国正の事例もあり、少し考え方を修正しなければいけなくなったのです。つまり、修正したと過去形の表現であるのかというと、拙著『大分県の刀』(平成十三年刊)では大分府内(現大分市・大給〈おぎゅう〉松平藩)に江戸幕末〜明治にかけて存在した守国(冨田哲〈鉄〉三郎)という刀工の作に、未見ながら「於肥前佐嘉」という添銘のある脇指があり、それを正真とするか否かで迷った揚句に押型掲載を見送ったのですが、後年出版した『続・大分県の刀』(平成二十年刊)で正真として掲載したのでした。因みに、「佐嘉」とは「佐賀」と同じです。

 

それは、守国の子孫の方から『大分県の刀』の出版直後に守国に関する文書を拝見したからでした。この守国は八代忠吉に入門しているのですが、前述の国正といい守国といい、こうした弟子の受入があった事は事実。であれば、江戸初期にも同じケースがあっても良いのかなあと思わざるを得ないのです。

勿論、国正と同じ宇和島の国房の二代目は大坂の大和守吉道門、三代目国房は大坂の近江守忠綱門ですから、他国の刀工への入門自体は珍しくありませんが、入門先が鍋島藩の支配する肥前刀工房となれば個人的な刀工への入門とは話が違うと思っていたのです。当然、国正の入門には宇和島・伊達家からの申入があった筈ですし、守国の場合は松平家(大給)からの申入も功を奏している筈でしょうが・・・。

いずれにしても、江戸後期になっても肥前刀の技倆は高く評価されていた事は事実でしょう。
(文責・中原信夫 平成二十九年十一月一日)

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