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♮ 「永」の字のある年紀について 〜『観智院本銘尽』にある〜

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

以前、『永仁の壷』に刻された銘字の年紀である「永」の字体を論じたのですが、同じことが重要文化財指定の『観智院本銘尽』(かんちいんほんめいづくし)にも同じ事を指摘出来るので概略を述べてみたいと思います。

 

『観智院本銘尽』という刀剣書は、別名『正和銘尽』とも言われているもので、一般的には刀剣古文献としては最古とされ、現在は国会図書館蔵ということです。この本については、もと京都・東寺の子院である観智院に伝来していたもので、文中(二丁目)に「正和五年まてハ 百五十年也」という書入があり、鎌倉時代の年号である“正和”をとって『正和銘尽』とも言われます。この本の複製本が昭和十四年に京都の便利堂から出版されているので、今回はその複製本を使用しました。尚、原本は明治四十一年に子爵・松平頼平氏が入手した後、明治四十三年に帝国図書館(現・国会図書館)蔵となっています。この松平頼平子爵は水戸徳川家の分家である守山藩主の家柄で、刀剣古書籍の一大コレクターとして著名であり、秋霜軒と号されました。

 

さて、この複製本の解説は三矢宮松氏であり、その解説で同氏は
「其紙質、書体、墨色等皆其時代にふさわしく確に応永の原写本と認められるものである」
と結論していますが、これは誤りです。

では(A)を見てください。これは四十二丁目の裏(複製本84P)の書入です。

「以南洞院御秘蔵本令誂行蔵坊幸順写之畢

   応永丗年十二月廿一日 之」
とありますが、問題は“応永”の書体、つまり「永」の字です。この字は明らかに現在の「永」の字体です。この様な「永」は室町末期頃から徐々に使用されはじめますが、応永の頃は「図-D」という字体でしかあり得ません。これは『永仁の壷』の稿でも述べています。(※本サイト/中原フォーラム/刀装具の研究/鐔の銘字について、「永」の銘字について〜その1、「永」の銘字について〜その2 を参照)

もっというなら、応永備前の「永」は「図-D」であり、永正頃になって末備前での永の字を使用する年号は「図-D」と「永」の入り混じった傾向になりますが、それ以後は殆んど「永」になっていきます。ただ、「図-D」の字体(寛永年紀)は肥前の初代・二代忠広や初代の正広などに見られるのが殆んど最後になるかと思います。

 

したがって、(A)における「永」は全く考えられない字体であるという事です。つまり、この本が応永丗年に書き写されたという三矢氏の結論は全くの見当外れです。さらに同本の最後(四十五丁目裏)(複製本九十頁)の奥書が(B)です。それには「応永丗年十二月廿一日」の年紀がありますが、その字体・筆跡は(A)と全く同じであり、同じ結論となってきます。

つまり、この本が写されたのは少なくとも室町末期より上ることは絶対になく、所傳を鵜呑にすることは絶対に出来ません。さらに言うなら、この本は各種既述の寄せ集めであって、内容的にも全く信頼を置くことは不可能な内容です。この点(寄せ集めの内容)については解説者・三矢氏も認識しているようですが、この応永年号の書体については何の疑問も持っていなかったようです。

 

また、この解説書に協力している帝国林野局長・三矢宮松氏(当時)はじめ、文部省国宝調査嘱託・本間順治氏(当時)はじめ、帝国博物館・辻本直男氏(当時)、文学博士・辻善之助氏も、ある意味では同罪となります。殊に本間氏は同書の二十一丁目裏から二十二丁目表での「相模鍛治(ママ)(冶)系図」と二十六丁目表の「鎌倉鍛治(ママ)(冶)」の二つの系図の解説を後年の自著で“一つは刀工系譜で、もう一つは血族系譜ではないか・・・”との意味合を述べていますが、全くもって苦しすぎる詭弁ともつかないものです。これはこの本が寄せ集めであることを如実に示すものであり、各々の書体の相違を論じるよりも説得力があります。また「相模鍛治系図」の“系”の横に“イ”というルビが同書にありますが、これは書体では確かに“系”ではなく“糸”であり、“イ”としか訓めません。この“糸”は他所でも書いてありますが、刀剣のわからない人の書入としか考えられず、“系”から“糸”に書写し間違っていたのを後人がルビを付けたのであり、それだけ筆写転写された回数が多いとも考えられますが、誤字が必然的につきまとう事になりますし、昔の人でこれ位の字を知らない筈はなく大きな疑問でしょう。

 

最後に、この本の巻頭(C)を見てください。一番最初に“正宗 五郎入道”といきなり始まっていて、その下に“貞宗 彦四郎 左衛□尉(※□は門)ニにんす”とあります。彦四郎以下の書入は明らかに筆写を重ねた結果のミスでしょう。もっと“彦四郎”以下を小さく、そして貞宗のすぐ下に書くべきであった筈。また書入そのものが別人の可能性もあるでしょう。

また、正宗の名前は四十二丁目表にもあり、本間氏は喜んだ筈です。鎌倉末期の正和年間の古文献にあり、応永年間の写本に正宗が載っている。貞宗も同じ。本間氏は正宗を捏造した本阿弥家よりも、もっと低級な正宗を戦後になって初めて国宝指定にした張本人でありますから・・・。

そして、本書には致命的な誤字があります。それは、三丁目(裏)“守長”と四丁目(表)“延房”、“守家”という備前刀工の説明に「ひんせん」と書いています。逆に四丁目(表)の“信房”には“ひせん”と書いています。また、他所には“備前”という漢字を用いて説明するという事自体が、全く?そのものなのです。

昔は仮名に濁点は付けないでいたのであり、“ひせん”は「びぜん」となるので、“備前”という表記と同じですが、“備前”は“ひんせん”とは絶対に表記しません。仮に“ひんせん”に濁点を付けて訓めば“びんぜん”となり意味不明となってしまいます。つまり、大きな誤用という事になるのです。

この点は鎌倉時代の長舩刀工が奉納したとされる『熊野願文』にも指摘されるので、一部の『熊野願文』は偽書であると既に指摘されています。これと同じことが、本書にもあることから、資料批判的には後世の偽書という判断がされるのです。

 

したがって、このような内容をいくら整理したところで、何の成果も得られないことは明白であり、文字面だけの研究は危険です。数種の古い記述の写本という但書があっても、その古い記述(底本)に?があるなら、根本的に?となるのです。こうした点を本書ではもっと総合的に検討を加えていかないといけないと考えています。

お断りしておきますが、私は特定の個人の批判をしているのではなく、その人の唱えた説・学問を批判しているのであって、曲解はしないでください。尚、『観智院本銘尽』については『刀苑』で福永酔劍先生が内容の解説をされていますし、『とうえん』で私がこの本の正体についても少し触れていますので・・・。
(文責・中原信夫 平成二十九年十二月十六日)

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