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+ 自在鈎の目貫

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

山銅、自在鈎の図、容彫

本目貫は自在鈎(じざいかぎ)の図柄(A)ですが、金色絵などの彩色は全くなく山銅一色です。

裏目貫(Aの左)は、タテ=五分弱、ヨコ=一寸四分弱、高サ=一分七厘強。表目貫(Aの右)は、タテ=五分、ヨコ=一寸三分五厘、高サ=一分八厘弱。

 

本目貫の全体の形をみてみると、概ねラグビーボール状となっていて、目貫の形としては何ら?の所はありません。図柄的にみると、自在鈎といっても今の若い人達をはじめ、戦後生まれの私をも含めて、全くピーンとこない道具です。

昔と言っても戦前まではちょっと田舎に行くと囲炉裏があって、天井からこの自在鈎がぶら下がっていて、そこに鉄瓶や鍋を引っ掛けて利用しているのですが、この自在鈎は見事に考え抜かれたもので、火からの距離を自由に加減出来るようになっています。現代のように、ボタンやツマミをちょっと押すだけで煮炊きが出来る形式とは違って、暖をとる用途もありました。昔の人の智恵であり、つい最近は古民具ブームとやらがあり、この自在鈎も相当の高値がついていたといわれます。

 

さて、本目貫は赤銅ではなく山銅ですので、後藤家作とはいえない、というより、そうみなければいけない現状です。つまり、初代祐乗が足利将軍家に重用されたので、後藤家は金(きん)を独占的に使用出来た、使用してきたという一つの前提からの見方であり、後藤家は資金力があったので金を買えたという考え方に辿り着きます。しかしです。果してそうしか考えられないのかという点であります。果してそうならば山銅に金ウットリ象嵌を施した作は全て後藤家の作とみざるを得なくなり、他金工の余地は殆んどなくなります。

こうした考え方から、後藤祐乗は足利将軍家に重用されて・・・という方向が形づくられていくのです。そして、その論拠の一つとして、祐乗、宗乗、乗真が絶対に存在したという考え方がいつの間にか派生してきます。また、派生させなければ、足利将軍家に重用という事はなくなります。私は祐乗、宗乗、乗真の三人を否定するのではなく、果して三人も存在したのか、むしろ三人がひょっとしたら全く名前のわかっていない唯の地方金工の一人でしかなかったのではないか、という思いが頭から離れないでいます。

 

本目貫は薄板(B)であり、裏行(うらゆき・裏の凸凹状態)をみると圧出(へしだし)もかなりついていて、ククリも多い(C)。そして、注目するべきは根(足)が全くない状態であり、表裏目貫の裏(B)には麦漆で埋めた形跡も全くありません。つまり、根が後世になって壊れたり取り去られたのではなく、最初からなかったという事ですが、こうした作例は本欄でも何例か紹介しています。

 

次に図柄のデザインに移りましょう。裏目貫の長い竹製の棒は左右に傾くことなくほぼ水平に彫られていますが、表目貫はほんの少し左下がり気味になっています。この少しの違いが図柄の平凡さを遠ざけ、ひいては立体感と存在感を絶妙に表現しているのです。また、竹の棒に絡む縄の状態ですが、その(目貫)上方にある結目の位置にも配慮があり、やや左下がりになった竹の棒とのバランスが良いのです。

本目貫は竹の棒にからませた縄をデザインする図柄での関係上、どうしても抜孔(ぬけあな)が多くなり、複雑な形状の抜孔は表目貫の方がバランス的に整っていると思われます。縄が竹の棒に覆(かぶ)さっている所(図柄で一番高い所)には手擦があり、縄目の毛彫がなくなっている所もあり、古さが出ているといえるでしょう。

因みに、自在鈎は所謂“冥加自在”の意にかけた昔の人がひそかな願いを表したのではと『鐔小道具画題事典』で沼田鎌次先生がお書きになっています。
(文責・中原信夫)

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