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INTELLIGENCE

+ 豊臣秀吉の刀狩

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

歴史の教科書にも載っている豊臣秀吉の所謂「刀狩」は天正年間に出されたものですが、ここではその経緯や歴史的役割を論じるのではなく、当時、加賀国大聖寺領内(江沼・能美二郡・四万四千石)を治めていた溝口秀勝の刀狩の報告資料を引用して、小道具の事を少し述べたいと思います。

 

当時、刀狩奉行を務めていた前田玄以に、溝口秀勝は領内より没収した百姓の刀、脇指、その他武具を送っています。その武具等の内容は、「刀が一〇七三腰、脇指一五四〇腰、鑓身(やりみ)一六〇本、こうがい五〇〇本、小刀七〇〇本」とあり、それでも刀・脇指の本数が少ないとされました。

ここで注目するべきは、笄(こうがい)五〇〇本と小刀七〇〇本についてです。刀、脇指は全国から任意提出された全てが京に送られていると思いますし、これを本阿弥家は精査して、質の良いのは残したはずです。証拠はありませんが、そう考えるしかしょうがないからなのです・・・。

では非鉄金属の笄は、そして「小刀」ですが、この小刀とは恐らく短刀の意味ではなく、小柄袋に入っている穂先(小刀)とのセットの事と解すべきであり、小刀(穂先)は刀・脇指と同じく他の鉄製品に鋳直したはずです。すると、笄と小柄はというと、その品質に応じて区別されて、リサイクルされたと考えるのが至当です。つまり、天正頃には刀や脇差の一部に、小柄・笄が装着されていた事になり、全国的にいえば、膨大な数量がリサイクルとして鋳直されたと考えるべきです。

 

したがって、私達が見ている天正以前(とされる)の古い笄や小柄は、こうした過程(時代)を通り越して、今に現存しているのであり、誠に有難い事でもあるのです。しかも、全国的に提出された小柄・笄は膨大な量だと思われます。もちろん、前述の如く、提出者の人達は全ての小柄・笄を提出したのではないでしょうし、中には先祖傅来として大事にしていた作もあるだろうと考えられます。逆にどうでもいい品質のものが大多数であったと考えられるのです。

つまり、天正頃までに百姓になっていた人達は、昔から百姓だったのでしょうか。全部ではありませんが、秀吉時代までの戦国時代に、武士階級であった人達が流浪し、百姓や他の職に就いた例はあまたあったはずで、刀工でさえも、以前はその地方の豪族に仕えた武士でしたが、織田信長や豊臣秀吉などの天下人により仕えていた地方豪族が亡ぼされたがために、やむなく流浪し、その揚句に刀工へ転身した例もあります。また、有名な京の呉服屋「雁金屋」でもあった尾形家も、先祖は信長に亡ぼされた足利義昭の家臣であり、また、近江国浅井家々臣であった事も有名な事実です。

したがって、こうした没落した武士達の指料に付属した小柄・笄で一番大事なものは隠し通した可能性も大いにあると考えられるでしょう。

 

当然、没収された大量の装剣具の目利には後藤家が登場し、品質の撰別には大いに関与したと考えて大過はないと思われます。

したがって、ある程度の製作年代を決められたら、それらを普遍的に見ていくと、小柄・笄の量が一時的に少なくなった時期があるのではないかと推測しています。つまり、小柄なら江戸時代初期から出現したとされる二枚張(地板嵌込方式)に比べて、片手巻や二枚張(裏打出方式)が圧倒的に少ないとなれば、それらは刀狩以前に作られた可能性の高い作という事になり、時代推測の確定の傍証になりうると考えています。

それ程、製作年代特定に利用出来る状況証拠が極めて乏しいという実情があるのです。したがって、利用出来るものは何でも利用し、理論を組み立てていかないと、小道具の本当の見方は確立出来ません。皆様方のお力も是非お貸しくだされば幸甚です。
(文責・中原信夫)

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