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INTELLIGENCE

♯ 石州のタタラの地に想う

Copywritting by Nobuo Nakahara

平成二十七年の十一月に島根県の浜田へ研究会で行ったのであるが、研究会の開始まで少し時間があったので、石州刀剣会の中野会長に“一ノ瀬タタラ”跡まで案内していただいた。ここは石州の名門・江尾(えのお)家のタタラであって、明治中頃まで存在したとされているが、日本海に注ぐ周布川の上流である。

 

川を遡ると、今では棚田となっている状態が現存していて、日本の原風景のようで写真でも一枚というような風景である。そこでハタと私の頭をかすめた?があった。それは現在は棚田として耕作されているのであろうが、もちろん面積は少なく、曲がった形で山腹にくっつくように何段もある。水田とするなら上から水は必ず流れてくる筈。しかしである。この僅かな耕地面積の棚田の土堤が、キチンと石組みがあって、厳重なものであることに私は?を覚えたのである。ひょっとしたら、現在の棚田となってしまっている場所は昔の“カンナ流”の場所と考えられないだろうか。そうすれば、土堤(崖)が崩れないように手間を十分にかけて作った理由もある程度通るのではないか。このように想像してみた。

こうした事がもしあったとするなら、川に直接砂鉄を流すのではなく、段々畑ならぬ段々棚田で用は十分に足りるはずである。

 

中国山地のタタラは一大産業であり、特に石見地方は出羽(いづは)鋼はじめ優良な玉鋼の産地として昔から有名であり、江戸時代には肥前からこの出羽鋼を買い付けにきたという記録が現存すると聞く。因みに、肥前へ積み出した出羽鋼は博多港で陸揚げされたとあるから、貴重な資料となる。当然、大坂へも送っていた事は周知の事実である。

こうした事実から見て、肥前刀と大坂新刀は同じ玉鋼を使用していた事は十二分に考えられるし、それを正直に認め、“肥前と大坂の鉄を区別しなさい”などという無茶苦茶な話は出来なくなってしまう事になるのである。
(文責・中原信夫)

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