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INTELLIGENCE

? 再刃について③

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

再刃については拙著やサイトで何回か述べているのであるが、磨上と同様にわかりにくいとの意見もあるようなので、今少し敢えて蛇足になるかもしれないのを覚悟して述べてみたい。

 

刀にとって再刃というのは、ほとんどなじみが薄いと思っておられる人達がほとんどである。また、現在迄に刊行された本には簡単にしか触れられておらず、磨上と全く同様の扱い方である。ただ、磨上と再刃の違いは何かと言うと、再刃はその再刃現場を見た証人はまずいないし、再刃を故意に隠すのは当然であるし、再刃を施した職人が黙ってしまえば証拠は出ないという事になる

磨上は仔細に観察すれば証拠(痕跡)は出やすいが、再刃はそうはいかない。また、刀身が健全な状態での一回や二回ぐらいの再刃は仲々見破りにくい傾向が強く、困ったものである

私は刀剣社会に入って四十六年目になるが、従来から刀社会では、刀だけの分野、つまり、国別や流派別などだけで刀を見て論じてきたが、これでは井の中の蛙である。歴史上における刀は、その時の政治、経済など様々な要因によって変化してきたという事を全く忘れて、また、除外して論じてきたのである。

 

さて、刀にとって一番恐ろしいのは「火」であるが、鎌倉時代から今日まで、殊に記録に残る江戸時代においてさえ、どれだけの火事があったかを考えていただきたい。明暦の振袖火事でどれだけの江戸市中が類焼したか。この事は有名であるが、結果的に江戸新刀の一大隆盛を招来した。つまり江戸市中のほとんど(江戸城天守閣まで)を焼いたという事は江戸城周辺の武家屋敷も全て焼いた。そうするとおそらく膨大な量の刀が焼身と化したと考えて良い。

となると、必然的にそれらを再刃する事になってくる。当然、刀の焼け具合(状態)も様々であろう。当然、淬刃したら十分に反応して刃文が入るのもあるはず。では、どこを見て再刃の可能性を察知する、あるいは察知出来るかである。それは端的に言って中心の状態、殊に古い太刀などには錆がついているが、その錆に変化(自然な変化ではない)が起きてくる。つまり、凸凹ならぬ凹凹だらけの中心がその典型である。しかも、中心の全面にわたり凹凹した状態のものは危険この上ないというか、×である。

要は、中心の全面(表裏共に)に凹凹状態があり、ヤスリ目もない状態である。しかし、既刊の本などには、こうした凹凹状態を鎚目仕立の中心と解説して、古い作例であるとまでしているのである。これが古い太刀などの再刃に対する鑑別を鈍感にして無関心にした最大の原因である。本当の鎚目とは凸凹状、凹凹状になったものとは全く違うのである事を(A-2)で十二分に再認識していただかないと、再刃、殊に何度も再刃されている作を購入する恐れが高い。

薄く錆がついた状態でも、薄皮が剥げた様な状態(A-1参照)になってしまうのです。(A-2)の状態はかなり異常です。現にこうした凹凹状態の中心を古い中心とみて好む人達も多くいて困ってしまうのである。また、そうした作例を研究会や鑑賞会に出品する傾向が多くあったのも事実である。ただ、長い間、柄に入ったまま放置されて出来た中心の錆・朽込状態とを区別しなければならないが、中心両面(表裏)の全体に凹凹状態があるのは×。

 

さらに、国指定品や重要・特重などにも、こうした作例を多く見るので、大いに注意しなければならない。

強いて言うなら、再刃や大磨上風の生中心の無銘極をそれらの指定品から除外すれば、無事に合格するのは一体何パーセント・・・と考えると、背中がゾッと寒くなるのであるが、一向に、そうした意識が高まらないのは如何がしたものか。

その理由の一つが本阿弥光徳以来の本阿弥家のみならず、現代の権威者として君臨した(君臨させた)人達にも殊に大きな責任がある。

 

このように、再刃としての確実な証拠は中心の表裏にある錆状態(色と凹凹)、ヤスリ目の有無しかないのであるが、これらに上手な隠蔽工作を施したのも多くある。

つまり、その一つが磨上を施すのである。凹凹になったり、火肌が出現したりした所をヤスリで削ってしまいながら、本当に磨上てしまう。ついでに焼落なども、磨上てしまえば、新しい中心につけた(ついた)錆で隠されてしまう。つまり一石二鳥である。こうした工作を施したと思われる作例もあるが、これらをどの様に鑑別するか。大事な見所は銘字の周辺であります。火災で罹むる熱量は想像を絶しますし、再刃の折の熱も相当あります。

熱は正直なもので、刀身、中心と言わず全て平均に伝播しますから、銘の周囲だけを避けていく事は絶対にありません。銘まで削り取ったら元も子もありませんので、銘の周囲の錆色、凹凹状態、そして大事なのは銘字の字画の中にも必ずあるヤスリ目の有無と残り方、そしてブツブツとあいた小さな穴が沢山ないか(E)、さらに言えば銘字の力でありまして、(C)・(D)を見てください。銘字の力が乏しい状態で、俗に“銘が死んでいる”とされます。これらの原因については拙著や『豆知識』で既述済。

 

参考までに、(A)をご覧ください。これはまだ良い方?ではありますが・・・。前述の見所を押さえた上で、皆様で判断してください。因みに、この作例(E)は生中心で立派な焼落があることは実見していますが、本刀あたりを基本に、「古伯耆刀工にも焼落がある」と日刀保は最近言い出していますが、勿論、国宝「童子切安綱」にも焼落がありますので、古い伯耆物に焼落があるという根拠になっていましょうが、この「童子切」も今一度精査するべきでしょう。

因みに、最近、日刀保はそうした焼落の見所で無銘を伯耆と極めていますが、焼落のない伯耆物があれば、これを×とするのでしょうか。それとも有るのも無いのもOKとするのでしょうか。ちゃんとした資料批判が全くなされていない事は言うまでもありません。日刀保の70年に亘る立派な伝統?・・・。
(文責・中原信夫 平成三十一年一月七日)

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