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終戦直後の刀の法制度について

今回より何回かにわけて紹介する文書はB5判の大きさで、“ワラ半紙”とタイプ用紙に謄写版と和文タイプで印刷された全四十八頁にわたるものである。そして発行されたのが昭和二十一年十月のものであり、物資不足の当時のため紙質も悪く一部の文字が消えたりしたのがある。その部分は出来るだけ判読を試みたのであるが、読めない部分は点線で囲んでおいた。但、全文の殆んどの意味は解せるので差支はまず無いと思っている。

 

十三頁からの文書が一番古い日付で、昭和二十年九月二十四日付。終戦から一ヶ月強であるが、要はそれから一年経って一頁の内務省での会議が成立したのであり、ここに行く迄に刀の日本人による所持許可に関するGHQ(進駐軍)の正式命令を順次集めたのが、今回の文書で何故、現在に至るも銃と刀が一緒の扱いを受けているかが解るのである。この会議については『趣味のかたな』創刊号で宮形光廬氏が、同誌第二号で佐藤貫一氏も触れている。全文を読むのは少し煩雑かも知れないが、この様な試行方法をした結果、現在の登録証制度につながっていった事は極めて重要である。併し、この間の正確な事情は今迄余り知られていない気味があり、先人達の尽力によって今日の刀が存在するという事を、我々は認識すべきであり、感謝しなければいけないし、単なる都合の良い伝聞を正すべきである。

 

さて、終戦から一年強を経た時に開かれた内務省内での刀剣審査委員会発足(一頁〜)に至る迄の間、日本政府と進駐軍(主に米軍)との間における実際の交渉は終戦処理の大本営連絡委員会(有末〈ありすえ〉機関)・(終戦連絡中央事務所)にいた浦(うら)氏が本誌(昭和五十八年十一月号)と『偕行』(昭和五十八年十二月号)で公表しておられる。しかも、浦氏は日本刀剣保存会の全国大会(昭和五十八年)でその功績を表彰されている。その記事をみた時、私の正直な感想は「今まで聞かされていた話と、ちょっと違うなあー」というものであった。併し、福永酔剣先生もその著書で浦氏の証言を書いておられるので当時の情況として唯一一番正確なものであろう。この部分が何故か表に余り出ないで、其後(昭和二十一年十月十八日以降)の経過のみが誇大に喧伝され、曖昧な神話を作り上げていったと思われる。

 

本文書中の五頁〜十一頁に掲載された名簿をみてみると面白い事もみえてくる。つまり内務省が担当しているから、当然、役人から始まるが、石渡信太郎と神津伯は恐らく敬意を表してであろう。確か神津伯は元役人・本間順治の師であったと記憶する。但、この顔振からすると挙国体制で臨んでいる事は明らかであるが、恐らくこの会議に出席した人々は何人で、人選の内容も委員長以外は不明である。併し、この後の昭和二十五年から始まった完全に日本国主動による銃砲・刀剣登録制度における最初の審査員(都道府県単位)には全て任命されているのではないだろうか。因みに三十九頁〜四十八頁の内容(後日掲載)は昭和二十二年五月から十一月に亘った赤羽刀撰別にも深く関与する基準と思われ、これで昭和二十四年四月公表の赤羽刀全リストの内容にも肯ける点が多い。

本文書は私の師・村上孝介先生没後(昭和五十三年)に、村上家より頂戴した大量の村上先生所蔵の刀剣書籍の中にあったもので、もっと早く公表すべきであったと後悔している。いづれにしても後日の参考にして頂ければ望外の喜びである。 (昭和二十二年十月上澣)

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