INTELLIGENCE
私は終戦と共に、マッカーサー司令部に対する大本営連絡官として有末機関長(中将)のもとに、厚木飛行場に赴き、「マ」元帥司令部の空からの進駐を迎える準備を行うことになった。
昭和二十年八月二十二日、当時の木炭車で厚木に行ったときは、厚木海軍航空隊は降伏を潔よしとせず、米軍に対する反撃の構えをみせ、「朕あらためて万国に対し戦を宣す」というビラが撒かれたり、不穏の空気が漲っていたが、高松宮殿下御直々の慰撫で、二十三日飛行隊は熊谷飛行場以東へ分散移動し、火を放った飛行機の残骸がくすぶり、無念の自刃者の弔い、次いで暴徒の略奪があったりで、敗惨のみじめさに身を切る思いがした。
マニラからの「マ」指令に従って昼夜兼行の滑走路の補修が行われ、八月二十八日夜明けと共に乱舞するグラマン機の掩護の下に、テンチ大佐の指揮する十七機の先発隊が何の予告もなく突如着陸した。この時から日本刀の悲劇が始まった。
昭和十五年から終戦まで、航空本部、参謀本部で航空機はじめ武器を管掌し、参謀本部資材班長の職にもあった私にとって、国破れて武装解除の任にあたることは、最大の皮肉であり、悲運でもあった。しかし己を捨てて「マ」命令を遵奉し、平穏に総ての武器を進駐軍に渡すべく、軍の指揮系統に従って、飛行機はエンジンを外し、火砲は発射不能にする処置が進んでいた。
八月三十日朝、スウイグ少将の率いる第十一空輸団が厚木着陸、続いて騎兵第一師団が海上から横浜に上陸したが、苛烈な戦場から敵国に第一歩を印した勝者の心理から、米兵の日本刀、日本の拳銃や酒類の掠奪が倉庫、集積所、民家にも及んだ。その日の午後二時「マ」元帥はパイプをくわえて厚木に降り立った。元帥は横浜のニューグランドホテルへ、司令部は横浜税関に、千二百人の占領部隊は山下公園に天幕を張って駐屯した。私共は司令部の行列の後尾について、神奈川県庁の大会議室に入り「マ」司令部との連絡業務を開始した。
九月一日の日誌によると、この日の米兵の刀剣拳銃の強奪、民家の検索立入り、暴行は二十件に及んでおり、有末機関長は直ちに抗議し、私は武装解除は日本側の責任において、武器を収集し、一定場所において対応する米指揮官に引渡す原則の承認を要請した。しかし米兵の掠奪暴行はやまなかった。
九月二日、ミズリー艦上の降伏文書調印後十八時、「マ」布告第三号、日本国民に告ぐ「武力斗争は終焉し、本日以降日本を占領する。行政、司法、立法は本官これを行う」の宣言が発せられた。ついで三日、武装解除と復員に関する指示第二号がサザーランド参謀長より出た。「日本の現地司令部は総ての武器を収集し米軍に引渡しせよ。この業務の米側の統轄はGHQ軍政部長クリスト准将が行う」というものであった。この日、ポツダム宣言受諾直後、軍使としてマニラに派遣された河辺参謀次長が、面識のサザーランド参謀長に挨拶に行くことになり、かねて有末機関でも練っていた日本刀に関する請願主旨「日本刀は必ずしも単純な武器ではなく、日本文化の表徴として、むしろ美術品的鑑賞に値する」所以を力説された。そしてこの問題については今後機関を挙げて折衝することになり、特に武装解除主務の私の責任の重大性を犇々として感じた。
GHQ説得のための筋書は「日本刀は古来神宮、大社のご神体として衆庶の尊崇をうけ、永い伝統と歴史に培われている。また刀匠は芸術家であり、古刀は骨董品、美術品として社会的評価は高い。各家庭でも先祖代々の家宝として伝承している。元帥刀、恩賜刀(当時の調査で約五百振りと推定、私もその光栄に浴していたがお押収され遂に還らなかった)、元帥刀(三十振りなど)貴重な記念品である。これらは武器ではなく文化財である。将兵の中には、これらの名刀を軍刀に仕込んで、自らの魂の鏡としている者も多い。どうか武器から外してほしい。武器として造兵廠で造った造兵刀や昭和刀、サーベル等は必ず引渡す。すでに全軍の武装解除が始まって時日は切迫している。至急配慮を乞う」というものであった。
陳情を重ねるにつれて、連合軍参謀長サザーランド中将は、ルソン島で日本軍の斬込隊に襲はれ、幕僚も南太平洋地域の日本軍玉砕部隊の白兵戦で日本刀には異状な恐怖と憎しみを抱いており、況や苛烈な戦場から敵国本土に直行してきた勝ち誇る荒武者の参謀連を納得させるには、厚く堅い壁があった。
九月六日、日本軍憲兵の武装解除交渉が行はれ、キャドウエル米憲兵司令官と日本側飯村憲兵司令官との会見があり、憲兵は拳銃と刀のみで 大部は徴兵であり、この際日本刀の件を全般の問題として提起された。次いで有末機関長は九月七日、サザーランド参謀長に再度日本刀の保有許可について申し入れた。「サ」中将の回答は「刀剣は武器という定義のもとに総べて武装解除する。有ゆる将校、下士官、兵も所持を許さない。東京近県はじめ全日本軍の刀は七日中に接取する」と。ところがキャドウエル憲兵司令官から同日「将校の刀は米憲兵司令官に申し出れば保管を許可する。ただし佩用は許さない。そのため政府の指定する博物館または指定場所に保管させる。個人の家庭での保有は許可しない」と、「サ」指令と矛盾する指示であった。私は直ちにGHQのバーゲン中佐を訪ね「将校の刀も民間の所有する刀も、名刀は武器ではなく芸術品、文化財である。名刀と凡刀との区別は鑑定人に見せれば直ぐ判る」ことを重ねて主張した。この日の夕刻から「サ」指令に従って私共は軍刀の佩用をやめ、私服に着替えた。
翌九月八日「私物の刀は家宝として所有を許す」という「サ」参謀長の指示が出るらしいという噂が流れた。ついて九月九日、日本憲兵司令部の谷川少将がキャドウエル米憲兵司令官に交渉の結果、私物の刀は神奈川県(当時マ司令官、第八軍司令部は横浜にあって、日本側の交渉も横浜で行われていた)において警察に集めさせて適宜処置してよい。憲兵の刀についてはリスト表を作り、第八軍に報告せよということであった。
九月十日、第八軍バイアス参謀長(少将)の指示第八号「宗教的寺社、宮城は破壊または占領しない。そのため米護衛兵を配置する。明治神宮、靖国、乃木、東郷神社はこれに含む。これらの宝物は保有を許可する」が出た。私共はこれで日本刀保存への突破口ができ、遊就館はじめ多くの宝刀の温存が可能になるものと判断し、欣喜躍動した。
九月十一日には、大本営は十三日までに解散すべしとの命令、次で「刀剣は家宝のみを許可する。ただし購入したものは武器として没収する」とのGHQ電話指示が第八軍司令部にあったことを知った。また「武器は日本側で九月末までに、なるべく鉄道沿線に集積して、引渡し準備を完了せよ」との第八軍バイアス参謀長の指示をうけた。さらに同じ日キャドウエル憲兵司令官と内務省警保局長との会見では「一般人の刀剣、火器も接取する。神奈川県は一週間以内に各警察毎に集め、県の指定した場所に保管せよ。治安維持のため警察官の日本刀、拳銃の所持を認める。これには軍憲兵の解除武器を充当する」という結果の通報をうけた。なお、キャドウエル大佐は「一般の家宝以外、形見、記念品の刀剣も保有を認める予定である。ついては各警察の集積したものを鑑定するための地域巡回計画を提出せよ。将校等で家宝を没収された者の確認を求める」と寛容な態度に変ってきた。
米軍内でも日本刀についての認識、見解の相違があり、命令指示にも一貫性を欠き、矛盾を露呈していたが、私共のねらいはこの間隔をうまく利用することであった。しかし遂に来るべきものがきた。九月十二日、GHQサザーランド参謀長より「刀剣は個人所有を含めて封建的軍国主義再建の表徴である。連合軍として刀剣を残すことは堪えざるところである。個人所有を含む総ての刀剣の破壊を要求する」との指令が出た。その夕刻七時、有末機関長は「サ」参謀長と会見し真意を正したところ、「もし日本刀を許したなら、軍国主義復活の芽を残すことになり、日本人は草の根を分けても日本刀で復讐を企てるだろう」との空しい返事であった。この日から連合軍の徹底した全国津々浦々に及ぶ刀狩りがはじまった。
万事休す。しかし私共はあきらめなかった。最後のご奉公である。やれるだけやってみよう。有末「サ」会談で一縷の望みは、家宅捜索をしても没収するかとの質問に対して、「サ」参謀長は将校の所有物は押収するが、一般人のそれはしない、とのこと。しかし米兵の刀狩りは民家の天井裏までに及び、日本の警察も己むを得ず自主提出をすすめざるを得なかった。斯くなる上は「サ」参謀長に直接面談する以外に手がないと決心した。くる朝、雨の夕べ、「サ」参謀長への直接面会を参謀室に申し込んだ。ある日のこと、玄関のMPが「また来たか。帰れ」と私の足もとに拳銃の威嚇射撃をした。そのことを有末機関長に報告したら、これでサービスしてはと葉巻一箱を渡された。勇を鼓して直訴にかえて、GHQ軍政部長クリスト准将や第四部のイーストウッド准将、ハチソン大佐、第八軍兵器部長サドラー大佐などに、日本課長マンソン大佐を介して近づき、明治の帯刀禁止令の由来、日本刀を心の鏡とする哲学、抜かざるの剣の道、日本刀の平和的美術価値観の説明に何回となく訪れた。
その頃、同じ日本人から刀剣許可は絶対にしないようにという投書、密告、裏面工作が米軍に対して行はれており、また米記者が本国に打電して、私共の主張を誹謗し、刀剣の厳重な処分を米政府に迫っているとの情報を耳にし、無条件降伏とはいえ何と情ないことかと慨嘆もした(九月十六日日誌)。
十月二日の日記には、軍刀二千五百(造兵刀)、拳銃と双眼鏡各々千五百をGHQの要請により、司令部職員の記念品として献上したとある。いわば機嫌とりである。「軍国主義すなわち日本刀は誤りである。「マ」元帥は京都、奈良の日本の古代文化を爆撃目標から外して残したではないか。凡刀と名刀を区別してくれ」と懇願に努めた。
その後、第八軍の兵器破壊命令(十月五日)に私物刀除外を懇請したり、武器引渡促進の軍政部司令(十月十七日)に日本刀問題の解決が促進の有力手段であると抗弁したり、機会ある毎に理解を深めるようつとめた。
十月二十四日という日は永久に私の脳裏に刻まれて、忘れない。それは「善意の日本人の所有する骨董品、美術品的刀剣は審査のうえ保管を許す」というGHQ指令が発せられたからである。当時宮城前のGHQの隣りの日本クラブにあった連絡委員長室で二ヶ月の長い折衝の結実に涙を流して欣び合った。
十月二十五日には指揮刀五十一振り、拳銃十一挺を日本課長マンソン大佐に贈り、翌二十七日(土)二十八日(日)マンソン大佐、クレギー大佐を川治温泉に私的に案内し感謝の微意を表した。
それから以降日本刀の処理は政府とくに内務、文部両省の主管となった。しかし善意の日本人は当然復員した元将兵を含むべきであり、審査は押収された武器の中の名刀に及ぶものであり、一切の権限を握る相手は知りあった同じ米軍幹部であるし、私共は側面的協力を惜しまなかった。
それと共に多くの愛刀家、業者の献身的な努力と相まって、二十一年六月に勅令が発布せられ、刀剣の審査権、所持許可権は一切日本政府自ら管掌し、本間順治氏を委員長とする刀剣審査会が組織され、名実共に日本刀復帰の歴史を綴ることになった。
思えば終戦の混乱期に、無条件降伏の名のもとに多くの名刀が玉石混淆で海に捨てられ、ガソリンで焼かれ、屑鉄となり、何百万の一般の方や将兵の愛刀が没収されたことは、その衝に当った一員としてまことに残念に堪えない。しかし、刀剣帰るの燭光は、文化財保護、文化庁創設へと二千年の日本文化の温床に脚光を浴びせる礎石になったように思う。
翻って、二十一年頃から対日理事会におけるソ連の策動が活発となり、米ソの対立、軋轢がGHQとの連絡に任ずる私共にも、冷戦のはじまりとして身に迫り、特にソ連が執権に接近してくるのに反発し、憤慨もし、私の日本の武装解除という最後のご奉公も終ったので、やがて官を辞して田舎に帰った。
いま三十八年前を顧み、日本刀問題は長い苦難の紆余屈折した道程であった。終戦直後からその末端に携はり得たことは、何よりの私の生きがいであったし、刀剣保存の歴史の曲り角にささやかな微灯を捧げ得たのではないかと、今もなお、ほのぼのとした心の温りを感じている。
(東京都在住)
筆者 浦 茂氏の略歴
現住所 東京都港区南青山二-九-十三
明治四十二年金沢市生、陸士、陸大卒、偵察戦隊、陸軍航空本部
昭和十七年初、大本営参謀、次で海軍軍令部参謀、陸軍省軍務局員、中佐
終戦と共に連合軍最高司令部に対する大本営連絡委員会委員
昭和二十九年 防衛庁航空幕僚監部、装備防衛課長、部長、幕僚副長
昭和三十九年 航空幕僚長 昭和四十一年退官
昭和四十三年 芙蓉海洋開発代表取締役、現在は朝日航空企業会長、水産エンジニアリング社長
敗戦という日本民族にとって有史以来の屈辱の歴史も、終戦から三十八年目の現在は、“戦後は遠くなりにけり”で、私らの意識からは遠い過去のものとなりつつあります。
無条件降伏という厳しい情勢下で、私ら先祖が残してくれた世界に誇る秀れた鉄の芸術日本刀は、一歩あやまればこの手記の九月十二日に「刀剣は個人所有も含めて、封建的軍国主義再建の表徴である。連合国として刀剣を残すことは堪えざるところである。個人所有を含む総ての刀剣の破壊を要求する」と、厳しい指令がサザーランド参謀長より出されています。この要求が実行されていれば、現在の文化財を含む総ての日本刀が壊滅状態におちいったことでしょう。想像するだに背筋の寒くなる思いがします。
このような重大局面にさいして、武器引渡しの直接の責任者であった浦中佐(当時)を始め、有末中将他心ある軍、官の方々は「日本人の象徴であり、先祖が残した貴重な文化遺産の日本刀は、断固護持しなければならぬ」と一身をとし、総力をあげて尽力され難局を切りぬける事が出来たものでした。
さて、戦後に発行された刀剣書や刀剣会誌のなかに、日本刀存廃に対する日・米の交渉経過が記載してあり、先輩の方々の並々ならぬご尽力に心から感謝をささげております。が、終戦直後から、十月二十四日に「善意の日本人の所有する美術品的刀剣は審査のうえ保管を許す」というGHQ指令の出た二ヶ月間の有様には不明分な点が多くありました。
今度の浦さんの手記によって、難局打開の交渉経過がはっきりとしたわけです。永い刀史のなかで、日本刀最大の受難期の正しいいきさつを刀史に加えることが私ら刀剣人の義務と考え、貴重な体験を手記にまとめて頂くようお願いしましたところ、「今までごく一部の人はこの事を知っていますが、当時の私の立場であれば、どなたでも同じ気持で交渉にあたったでしょう」と、謙虚に話される浦さんの人柄に強く胸を打たれて心からありがとうございましたと深く頭をたれたものでした。同時に日本刀をつつがなく後世に伝承出来た大恩人の浦さんらの献身的なご尽力に、改めて深い感謝を捧げるものです。
「吉川皎園記」(昭和五十八年十一月号第五三六号)