INTELLIGENCE
♮ 肥前刀〜その1
Copywritting by Nobuo Nakahara
読者の皆様は余り興味がないかも知れませんが、何回かにわたり肥前刀について書かせて頂きたいと思います。
肥前刀については拙著『刀の鑑賞』でも触れた様に、新刀から新々刀にわたる刀姿の変遷の基準となってきたのであり、従来の刀剣書全てが全くこの点に触れなかった、もしくは気付かなかったのでしょう。つまり、桃山最末期から明治初期に至る間、連綿として同じ国、同じ系統で絶えることなく刀を製作したのは肥前刀のみです。真改・助広・虎徹といっても何代も続きませんでした。そんな単発的な系統に刀姿の基準を求めること自体がナンセンスであり、間違であった筈。また、肥前刀はハイテクそのものの一大集団であった事を一層理解して頂きたいのです。私は肥前国(鍋島家)の殖産興業の一大プロジェクトがこの肥前刀であり、伊万里焼であったと考えていますが、焼物は全世界的に有名なのですが、肥前刀は狭い刀剣社会ですら、前述の認識や評価に乏しいのは全く困ったことです。併し、初代忠吉の時(実際は忠吉が武蔵大掾忠広と改銘した時)から恐らく大工房制を展開した筈であって、その大工房を美事なまでに生産と販売のルートまでを確立したのが近江大掾忠広(鍋島家の役人も含めて)の時代であったと推測しています。
さて、その初代忠吉ですが、こんな偉大な刀工が、従来から言われているように師伝が不明であることが不思議です。私の推測はこうですが、あくまでも推測であり、従来の考え方と全く違う点がありますが、お許し願います。つまり、初代忠吉(以下、単に忠吉という)が藩に提出した正式書類にも、自分の師伝をボカして記述したのは、当時の鍋島家に対しても余り好ましい立場の師ではなかったのではと考えられるのです。伊予掾宗次は鍋島家の主家・龍造寺家の抱工ですから、当時の主従関係・土地柄からも忠吉との師弟関係は成立しにくいでしょう。では、高技術の鍛冶技術は誰かに手解きをしてもらうか、教えてもらうしかなく、そうした点から考えれば、私は豊後の平高田刀工群の誰かに習ったと考えるのが一番順当であろうと考えます。
慶長頃直前迄、九州で一番大きな刀工群は平高田であり、それらは大友家配下の豪族の抱工です。天正頃迄に大友家は莫大な利益のあがる博多の掌握を完全に確立するため、度々龍造寺などと戦っています。大友家は必ず筑後川を下り、久留米の高良山に本陣を置きました。そして敵方の肥前の龍造寺と対峙したのです。つまり、筑後川を防衛線にして肥前国へ攻入る。当然・刀工達も少なからず筑後川の西方の最前線に火床等を作り、武器修理に忙殺されますが、刀工も当時は戦闘要員なのです。不幸にも龍造寺・鍋島の家人がその内の一人でも捕まえれば、佐賀へ連れ帰る筈であり、そこで鍛冶技術を不本意にしても教えなければいけなくなる筈であり、むしろ、相手方の武器製造技術を積極的に取り入れる方が、戦争に有利となる筈です。私ならそうしますが・・・。そうした状況で平高田刀工の技術がある程度、肥前国に伝われば、前述の様な忠吉の技量が十分に考えられると思っているのです。しかし、少し前まで敵方として何度も戦って痛い目にあわされた憎っくき相手方から、基本技術を習いました!、とは口が裂けても書けないし、鍋島家も面子上書かせなかったでしょう。刀工は兵隊であるということ、最前線に必ず居なければ、刀の修理・補給は出来ません。こうした最低限の事実をふまえ、尚かつ当時の政治状況も含めた上での私の推測です。
以前、平長盛の刀で、それは直刃出来でしたが、匂口も忠吉に見紛れる作をお預かりした事があり、入札鑑定会で使用したら、忠吉というか肥前刀に集中しました。その折、ある古参の参加者が「この刀は、忠吉に極めてよく似ていますね・・・」と言われたので、私は「それは違う。平長盛に似ているのが、忠吉であります。」と答えました。つまりは、時代的に古いのが長盛の方なのですから。
(文責 中原信夫)