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♮ 一振の追憶 その3(越中守藤原正俊)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前回で柾目肌の短刀を紹介したので、今回ももう一振の柾目肌の作刀を紹介してみたいと思います。

 

脇指 銘
越中守藤原正俊
慶長二拾年正月吉日

刃長/一尺八寸八分三厘、反/四分五厘、本造、行の棟、中心は殆んど生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
総体に流れ心の柾目肌に小板目肌が交じり、少し肌立ち気味。刃寄りと鎬地に柾目肌がよく出る。
[刃文]
小沸出来の直刃調で、少し弯(のたれ)心があり、総体に柾目肌に沿って縦の所作が頻りに出て、刃中には小足が入る。
[鋩子]
直状で表裏共に少し弯心となり、先は尖り心となって掃掛が強く、返は深い。

越中守正俊は初代の伊賀守金道と兄弟で、三品一派と称され、出身は美濃国の末関系とされていて、江戸最初期頃に京都で大きな勢力でありました。特に正俊は多くの作風をこなす腕利きの刀工であり、私の好きな刀工の一人でもあります。

正俊の作風は多岐に渡り、古作に見紛う出来が多くありますが、本刀のように柾目肌が強く表れたのは決して多くはないと思われます。

 

さて、正俊というと、その弟子に仙台国包の初代がいるとされていて、本刀は慶長二十年紀であり、初代国包は寛永四年に山城大掾を受領しています。また、国包は大坂夏と冬の陣の折にはまだ滞京していて参陣しています。元和五年仙台へ帰っていますが、果して本刀の柾目肌は正俊が先に持っていた技術なのか、国包が逆に正俊に教えたのかが問題なのです。その前に何故、伊達家抱工の国包が正俊の門に入ったのか。もちろん、伊達家の力の後押があったのでしょうが、三品の総帥であり長兄の初代伊賀守金道でもよかったはずで、その方が受領に好都合と思われるのですが・・・。

また、この初代越中守正俊の中心ヤスリと棟のヤスリには化粧ヤスリに見えるヤスリが施してあるのは注目に値します。確か、同門とされる初代出羽大掾国路の慶長年紀にも同様に化粧ヤスリがありますが、化粧ヤスリを創始したのが寛文頃の大坂刀工であるという従来の説は改められるべきでしょう。

 

さて、国包の終生変らない柾目肌ですが、私見ながら国包の方が師の正俊に教えたと考えた方が順当だと思います。何故なら、正俊の柾目肌は作例が少なく、国包の柾目肌に較べてどちらかというと柾目肌が流れて強く出るという次元のものですが、国包の柾目肌は極めて整然としたもので、独特の方法を持っていたと考えられるからです。
(文責・中原信夫)

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