INTELLIGENCE
♮ 刀の時代区分・その1
Copywritting by Nobuo Nakahara
刀の時代区分というのは案外、余り真剣に考えられていないというか、余り関心はないというのが実情です。しかし、今から40年以上も前の風潮では一つだけ妙にこだわった意見がありました。
つまり、無銘を日刀保の丸特審査に出した時に、審査結果が古刀期(末古刀でも可)に極められれば、提出者は「まあ、しょうがないな・・・」という半分納得した顔付で審査料を支払う。逆に、新刀初期にでもなってしまえば、「これじゃ困る・・・何とか末古刀にでも極めてくれませんか。」などといって、揚句の果ては審査員席にまで入り込んできて、主審の先生と直談判に及ぶという様な事がよくみられたのです。つまり、古刀と新刀の名称では、断然、古刀というものが見栄えが良かったのです。しかし、よく考えてみてください。末古刀と新刀初期の間は何十年であって、天と地ほどの差はないのです。
さて、今回はこの古刀と新刀の区別をどのようにするのか。これについて少し述べてみたいと思います。以前、本欄(オフレコ刀庵/親国貞・親国助の位置づけ)でこの点にも少し触れたと存じますので、重複する点があるかと思いますが、ご了承ください。
私は古刀と新刀の分岐時期を、従来から全く変更される事のなかった「慶長」から少しズラして「寛永」にした方がベストに近いベターであると以前から主張してきました。勿論、寛永で区分しても全ての事を完全に処理ができる訳ではありませんが、慶長よりははるかに理屈の通るものになると考えています。
つまり、『新刀弁疑』という刊本のサブタイトルだけで、いとも簡単かつ無雑作に区別してしまった・・・これは大雑把すぎる暫定基準です。加えて、新刀の祖という刀工の一人に堀川国広をもってきました。世に堀川国広崇拝者は多いですが、作風と年紀からいえば、末古刀の範疇が殆んどであり、京都定住(晩年)以前は、末備前の作位には全く及ばないものであり、日向打・足利学校打は平髙田・末関・末相州と全く同一次元です。ただし、晩年の作(代表作は重文指定の加藤国広)は以前の匂口よりはフックラとした匂口となって、大乱になるだけであり、それ故に、この頃は弟子の代作という推測も十分に成り立つのです。
国広なら叢沸がついていようと荒沸があろうと、刃文の形が崩れていても、覇気があるとか、力強いという様な抽象的表現で褒めちぎる先生達が多かったのです。この様な刀をどうして国広は作ったのか。それは、この様な匂口に作ろうとして作ったのではなく、結果的にその様になったというか、武器としての刀を作っただけであって、平髙田も末相州も末関も全く同じです。人に見せるとか、見栄え良く作るとかいう様な感覚そのものが全くなかったと思われますし、そうした要求もなかったと考えれば、すぐに理解出来るでしょう。
要は堀川国広を崇め奉るのに、新刀の祖の一人であるとされる埋忠明寿を持出すことが第一のボタンの懸違いであって、考え方が歪む基になっているのです。それよりも肥前刀や三品一派や国貞・国助の動向を考慮に入れるべきであったと思うのは、私一人でしょうか。
それと、末備前刀工の凋落が微妙な影を落としているようにも思えますし、仮に末備前がもっと続いていれば、堀川国広や埋忠明寿の作刀はどういう評価を受けたのでしょうか。つまり、埋忠明寿の正真作は極めて少なく、技量も初代忠吉よりはるかに劣ります。つまり、作刀は明寿のアルバイトであり、卓越した技術を持っていたのは白銀と彫刻の分野なのです。この点ははっきりと認識しておくべきでしょう。したがって、初代忠吉達が明寿に入門した真の目的は彫刻の技術習得であり、肥前刀の販売拡大のためのもので新規作風の開発であると私は考えています。
(文責:中原信夫)