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INTELLIGENCE

♮ 刀の時代区分・その2

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前稿で、京都に定住した晩年の堀川国広には匂口のフックラした作が多くなったと書きましたが、これと同じ傾向を示している国があります。それは古刀のエース中のエースである末備前。私が刀剣界に入った40年以上も前の人々は、「永正備前までは良いが、天正備前は・・・」といった趣旨の見方をよく示されました。これはおそらく、永正から天正頃にかけて備前の刀の鉄質が変化しているという事を暗に指したものと考えています。

つまり、匂本位の備前物とされるが、末備前、ことに天正頃前後からは従来と全く匂口の相違するのが出現してきます。これを本阿弥光遜先生は“渡来鉄”によるものという見方を示しておられますが、私はむしろ渡来鉄説もあるでしょうが、国内の和鋼の質というか、砂鉄の質と製鉄方法の変化と捉えた方がベターと考えています。そうした鉄質の変化が、刃文の匂口に如実に現れてきた、そして世上からして武器の刀よりもステータスシンボルとしての刀の要求が強くなってきた時期。それが慶長より寛永という時期に設定出来ると考えるのです。

 

この考え方は、江戸新刀の隆盛期が寛永より降れて寛文前後になるという点も、その証左に少しなりうるでしょう。武士の町という感が強い江戸ですが、それだからこそ戦のない時代のステータスシンボルとして刀を捉えたはずといえないでしょうか。

江戸新刀の万治頃以降の作品で、古刀に見紛う匂口は極めて稀です。また、大坂でも肥前でも末古刀に見紛う匂口の作刀は寛永を境に極めて少なくなる事は以前に述べました。極めて少なくなるというよりも、まだこの頃には見かけますが、万治頃を過ぎれば全くないといってよい程、稀になるのです。

 

これは匂口だけではなく、刃文の形状から見ても末古刀とは全く感覚的に相違する形状が多いのです。当然、以上の観点からいっても完全に古刀と新刀を区別出来ないこともまた事実ですが、結果的にどこかで区切らなければなりません。となると、逆に考えてみれば、肥前の初代忠吉が忠広と改め、武蔵大掾を使いはじめたのも寛永元年です。親国貞が大坂へ移住したのもその前の頃、親国助も殆んど同時でしょうし、暫くは京から大坂と肥前に刀の中心地がシフトしますが、次に江戸刀工が勃興するのが万治・寛文頃となって、この頃には大坂・肥前の初代刀工達も亡くなり、各々子供・弟子の活躍時期となっていきます。

刀の姿についても末古刀からは身幅が広く反の浅い大切先状のものが出現、ことに天正頃からの延長といっても良いのですが、そうした姿が慶長姿と軌を一にして同じ様式です。しかし、寛永頃になると、むしろ末古刀の永正・天文頃に近い姿が多くなり、明らかに使用形態が変ってきています。さらに造込にしても寛永頃には長巻直造などが比較的多く現存し、片切刃造も同様です。

 

結論的には、古刀からのものが大きく変わる転換点である寛永から新刀の領域とみなしてもベスト(完璧)ではありませんが、ベストに近いとするべきでしょう。さらに、慶長から元和を緩衝区域という考え方をするべきで、その緩衝区域の終りが寛永初頭頃であると捉えてほしいのです。

それにしても、この問題は難しい。昭和の60年代と平成の初頭の文化・文明の区別と同様に・・・。
(文責・中原信夫)

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