INTELLIGENCE
♮ 古文書からも覆る刀の定寸
Copywritting by Nobuo Nakahara
肥前刀については本欄でも私が感じている点を推測を交えて述べていますが、今回は肥前刀の正広家に伝わった古文書の中に、興味を引く記述があったので少し述べてみたいと思います。
まず『肥前刀備忘録』(横山学氏著・平成十八年刊)に、この正広家に伝わった古文書が写真掲載されているので、これをもとにしてみます。因みに、正広家の古文書は『肥前の刀と鐔』(福永酔剣・寺田頼助著・昭和四十九年刊)にも少し紹介されていますが、私は実物を見てはいませんので、今回の文書は大変参考になります。
さて、この文書(後掲)の釈文は著者の釈文か、それとも他の人かの記述はありませんが、著者の説の通り元禄七年の文書であり、宛先は二代正広と四代忠吉でしょう。ただし、私が興味を持ったのは、最初の“並鍛長脇差注文”と“一
長サ貳尺壱寸七分 弐 腰”との間にあり、二行目にややくっついて小さい文字での但書です。これの釈文は付いていませんので私が訓んでみると「但貳三分ハ長短有之程ニ」となると思いますが、これをどう解釈するのでしょうか。三分の刃長の違いとすれば、当然ですが目釘孔は最初からあけて渡したのか、それとも買手に渡った時点で買手の拵によって後日あけるのかということになり、少し危介な点が出てきます。肥前刀全般だけでなく、他国のものにおいても目釘孔(生孔)をどこに、つまり、刃区と棟区を結ぶラインからどれだけ下(中心尻の方)へあけるのかは、時代によって相違があるとされています。この点については『肥前の刀と鐔』においても述べられていますし、『肥前刀備忘録』でもかなり詳細に述べられているので、その功績は大きいと思います。
概ね、刀の目釘孔の位置については肥前刀が決めたことではなく、時代各々に応じた拵、特に鎺の吞込の深さや柄の金具、特に“縁金”の状態によって変化しますし、柄巻の種類等によってもかなりの変遷と変化があります。これを汎称して“拵の都合によって目釘孔の位置が変わる・・・”とされてきたと考えています。殊に、鐔の厚さが前述の条件にも増して大きな影響があったと考えるべきです。
ちょっと本論から外れましたが、ここで今一度、この古文書の最初の文言ですが、“並鍛”とあります。つまり、法量だけではなく刃文の形や鍛法まで指定した特別注文のものではないという意味にとれますが、如何でしょうか。すると、元禄の頃も普通の鍛をやった製品は多かったはずで、ある程度の刃長(三分つまり1センチ弱位)は適宣調製して買手の希望に応じていたという事になります。つまり、“並”の文字をその通りに“なみ”と訓むのかが問題となりますが、文言の最初と、下の文言の意味からしても“ならび”とは訓まないと思うのですが・・・。
いずれにしても、二尺二寸弱の長脇指が元禄頃にも厳然としてあった事、むしろ多く使用されていたのは著者の説の通りである事には異論はなく、むしろそうでなければいけません。つまり、武士の差料、特に脇指は表道具です。しかも、公的な場所での指料とプライベートな場所での指料は必ず変えています。
こうした点も従来から言われてきた何がなんでも定寸という考え方を根底から考え直すべきであるという私の長年の主張は、この古文書でも裏付けられたと思っています。
(文責・中原信夫)