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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その10(備州長舩兼光)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

短刀 銘
備州長舩兼光
延文四年五月日

刃長/七寸五分五厘、反/なし(ほんの僅かつく)、平造、真の棟、中心は生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
小杢目肌がよくつみ、棒移が鮮明にあらわれている。
[刃文]
匂出来の五の目乱で片落風となる。匂口はやや締り心であるが、フックラとして叢は全くない。
[鋩子]
乱込で、先は尖り心の小丸、返は少し。

本刀は兼光の平造短刀の中でも一番短寸のものの一つではないかと思われます。一般に兼光の短刀(小脇指)では延文貞治型と称される反がある身幅の広い一尺前後の平造が有名ですが、八寸を下まわる作は少ないと思われます。

本刀の一番の見所は棒移が刃区下から刃文と一緒にあらわれて、その行先は鋩子の返先の辺であり、こうした型式でないと?がつくものとなります。

因に、在銘正真の兼光では、規則的な片落五の目乱はないのであって、本刀の刃文を見て頂くと納得して頂けると思います。

また、古刀にありがちの年紀の二月八月ですが、本刀は“五月日”となっていますが、こうした例は少なく珍しい例です。

 

さて、本刀の中心の形状をよく見てください。中心尻から刃区・棟区にのびる刃方・棟方の線は、上部の鎺元(刃区・棟区)にむかって踏張った形状となっています。これが健全な中心状態であり、拙著『刀の鑑賞』で“中心の踏張”として取り上げています。鎺元の踏張は衆知されていますが、この“中心の踏張”なる語句は、私の造語ですが中心と刀身の健全さの一番の見所でもあります。

 

本刀は本来はほんの少し反があった姿ですが、現状では、押型を見て頂ければわかる様に、先の方がほんの少し“うつむき”加減になっていて、先反が取り去られて、ほんの少し変形しています。この点は鋩子の返の深さによくあらわれています。

つまり、南北朝期の短刀では反がつくが、鎌倉期の短刀では筍反というのが、その時代の姿として喧伝されていて、戦後は“内反”という変梃子(へんてこ)な表現が市民権を得てしまった。この名称のレッテルで定寸・内反の姿として来国俊(短刀のモデルケース)の名刀として称賛を得て、愛好家の庫中に収まっているケースが多いのです。

そうした作例の殆んどが、ある程度以上の内反で鋩子の返が深いか深々とあり、こうした作例を重要刀剣などの指定物件にしている考え方がそもそも大きな罪作りです。

これからは、こうした戦後の日刀保主導の指定物件(国指定物件をも含めて)を再検討するべき時がきたと思っています。
(平成二十八年三月十日 文責・中原信夫)

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