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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その14(摂州住藤原国貞)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀  銘
摂州住藤原国貞

刃長/二尺五寸五厘、反/四分七厘、本造、行の棟、中心は約二寸九分程の磨上、孔は三つ。
 
 
[地肌]
小板目肌がよくつみ、棟寄りに柾目肌が出て、少し肌立つ。
[刃文]
匂口が締り心の五の目丁子乱、突出した乱、尖り刃が交じって焼幅が広く小沸がよくつき、飛焼が少し出る。
[鋩子]
直状で深く、先は小丸となり、返は殊に深く、棟焼がある。

本刀は私が独立して研究会を開催し始めた頃に拝借させていただいたもので、本当に懐かしい一振です。

本刀は俗に云う親国貞の最初期作であり、その匂口については、末古刀の趣を十分に残していると思われます。

私は親国貞が大好きであって、親国貞を見かけたら殆んどを鑑定刀・鑑賞刀として拝借してきました。殊に子供の真改が手助けしない頃の同作には、一つの特徴があります。

 

それは本刀にも見られる刃文の形が不整いである点であり、逆にそれを嫌う人もいて、そうした人は真改の様な整った刃文を是として好みがちです。これと同じ事は親国助にもいえる事で、子供の中河内は好むが、親国助はどうも・・・というケースです。さらに、親国助は現存刀が少なく、逆に親国貞はかなり多い。

こうした点が親国貞に対する評価が低いという事に繋がっていくのですが、これについては明らかに考え違いとしか言いようがないのです。

 

親国貞、親国助はともに京都の堀川一派の越後守国俦の弟子とされ、同時期に大坂へ移住しているとされています。その時期は元和末頃から寛永最初期頃とされていて、私が古刀と新刀の境目を寛永とする一つの根拠にもなっています。つまり、本刀を見ても末古刀の匂口に極めて近いと感じるのであり、これは親国助にしても同様です。

また、刃文も、刀として見せる刃文の形ではなく、武器としての用途を満たすだけの感覚と思われます。

しかし、各々の二代目は、見せる刀の刃文の形を目指している事は明白で、その時期は寛文・延宝頃と特定できるのです。そして、匂口も深くなってきている点も初代達とは明らかに相違しています。こうした特徴を捉えて、本阿弥光遜が新刀特傳という捉え方を示したと考えられます。
(文責・中原信夫)

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