INTELLIGENCE
♮ 駆込重美の杜撰
Copywritting by Nobuo Nakahara
国指定について書いておこうと思う。
昭和52年・村上孝介先生の事務所(神楽坂の近く)に山陰T県のSという人が訪れた。S氏は村上先生とは旧知であり、そのS氏が重美指定の在銘の刀の処分を依頼してきた。私は先生に預書を書くように言われたので注意してみると、重美の指定書(コピー)の銘文と現物の銘文が違うので先生に言ったら、一応お預かりして、村上先生が文化庁に指定物件か否かを聞くという事でS氏は帰られた。
その後、先生はハイヤーで文化庁に出かけられたが、担当の広井雄一氏は不在。後日、文化庁を再訪して広井氏に質した所、「佐藤貫一先生が重美と言っておられますんで・・・。」と広井氏が返答したので、村上先生が「佐藤君が重美と言えば、それですむのか」と詰め寄ったが、それ以上の回答は広井氏からはなかった。
後日、電話で「この重美は終戦の混乱で調書が不備でして・・・」と回答してきた。
村上先生が「これは昭和23年の指定だよ。君の言い訳と食い違うではないか」と返すと、後日、広井氏から「昭和23年頃、当時は刀以外の方が調書製作に関わっていまして、それでこの刀は陶器関係の方が書いたので、不備という事で・・・。」となった。
しかし、当時、刀専門の本間順治氏は文部省にいた筈であり、別分野の素人に調書を書かせたとは、呆れてしまう言訳。しかも、この刀の名儀人はM姓であって本間氏とはかなり関係の深い人物の子息である。
村上先生は一応これで終わりにされ、刀はS氏へ返却された。
この件を村上先生が、文部技官を退職した辻本直男氏に話したら、辻本氏は「実は以前から重美の本、ことに刀剣関係の本を作ろうとして調査したが、文化庁にある筈の調書・写真が不備なものが多く、本を作るのを断念した。」と言った。勿論、終戦時には国力がわかるような多くの書類資料が焼却処分されている。
現に、村上先生も終戦直前、当局の指示で書類を日本医師会館で焼却したと話された。しかし、昭和23年指定の書類が不備とは…。しかも、昭和24年で重美指定は終了し、国宝重文制度に移行している。私はこの昭和23・24年頃の重美を「駆込重美」と勝手に言っているが…。
いずれにしても、昭和23年2月には(財)日本美術刀剣保存協会は設立されているが、この頃は文部省(文化庁)内の貴重書類がなくなる程の混乱状態であったのかと逆に問い直したいですが?・・・。
(文責・中原信夫)