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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その16(窪田鎮勝作)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

短刀 銘
応川路聖模君需 窪田鎮勝作之
文久元年十二月日

刃長/26センチ、反/殆んどなし(先少しうつむく)、平造、行の棟、中心は生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
小板目肌が無地風となって板目肌が交じる。
[刃文]
匂出来で匂口が締り、丁子乱に五の目交じり、小沸つく。刃中の足はよく入り総体に坂がかる。
[鋩子]
弯心となり、先は尖って掃掛となり、返は深く、棟焼が下まで出る。

この押型は私が独立して直後、おそらく昭和五十四・五年頃にとったものです。押型に日時の記入がないので、拝借しないで、出先で押型をとったもので、元は全身押型でした。今回、これを切断してB5判に収めたのですが、本刀は私の出していた『とうえん』誌に掲載しました。その後20年近く経ってから『刀剣春秋』に掲載した事があったと思います。

 

銘文の「川路聖模」とは「川路聖謨」の誤記と思われますが、この点は『とうえん』稿中、福永酔劍先生の指摘でもあります。聖謨は“としあきら”と訓み、愛刀家でした。

享和元年、豊後国日田で西国筋郡代(日田代官所)の役人・内藤蔵由の子として生まれ、後に川路光房の養子となる。幕府の小普請組ですが、才能があり、佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行、勘定奉行兼海防掛を歴任。武術や刀、小道具にも興味があり後藤一乗とも交流がありました。また、水戸の斉昭にも信用された能吏でしたが、明治元年三月十五日自刃。六十八歳。

 

さて、川路聖謨は豊後の日田代官役人の子ですから、子供の頃に日田にいた可能性があります。そして、本刀の作者「窪田鎮勝」ですが、福永先生は有名な窪田清音の系統一族かと推測されていましたが、慶応二年頃に豊後国・日田郡代に窪田治部右衛門鎮勝という人物がいます。

この鎮勝は慶応二年の小倉の戦(幕府と長州藩)の後に日田へ帰り、慶応四年一月の豊前四日市陣屋襲撃(御許山/おもとさん)騒動の後、日田を離れています。つまり推測ですが、この二人(聖謨と鎮勝)は知合であったと考えられ、同じ幕臣であったとなれば、この短刀の銘文は十分に理解出来ますし、清音の一族であれば清麿門人とも縁は繋がります。そして福永先生は本刀の作風・銘振から、この作者・刻名者は栗原筑前守信秀と見ておられます。まさにその信秀の手癖がよく出た刻銘です。当時は“銃刀法”もありませんので、信秀が作ってあったものに淬刃したのが鎮勝、刻銘はすべて信秀という事ではないでしょうか。

 

それにしても、本刀はどこかに在るはずで、是非とも今一度拝見したいと切に念願しているのですが・・・。

因みに、『とうえん』誌に本刀の押型と福永先生の解説が出て、何年も経たないうちに、本刀をそっくり真似た偽銘が出現したのを記憶しているので、注意してください。
(文責・中原信夫)

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