INTELLIGENCE
♮ ファジーな感覚
Copywritting by Nobuo Nakahara
先日、ある研究会で刀の反(そり)具合について私が参加者の方に聞いたケースを紹介してみたい。
(私) 「この刀の反は?・・・」
(参加者)「腰反だと思いますが・・・」
(私) 「いえ、反の唯一の表現は深いか浅いかでありますので、それをおっしゃってください。」
(参加者)「そういう事なら浅いと思いますが・・・」
例えば、このやり取りの中にある深い浅いという表現であるが、では新刀第二期(寛文・延宝頃)の姿は概ね反が一番浅いとされているが、具体的な数値は今迄はどの本にも示されていなかった。そこで拙著『刀の鑑賞』では、刃長二尺三寸五分位で五分前後位の数値で反が浅いというのを基準としてくださいと明示した。それ程、見ている全員が少しづつ違う感覚をもって刀の反の深さを見ていたのである。寛文延宝頃の刀の反を一応の目安にして考えてください。同時に身幅についても、元幅を基準にして、先細りは“三分(30%)”の差があるのを先細りと見てくださいと明示した。
さて、反についていうと、深い、浅いの両方があるが、他に私は“深目”“浅目”という表現をよく言うのである。例えば、深目と言うのは深いという程ではないが絶対に浅いのではない。つまり、重点は深いにおいての深目という日本語独特の表現である。これを英訳すると「a little deep」とでもなろうか。浅目ならば「a little shalow」となるのかもしれないが、深目は深いという方にかなり近いし、深い方に重点をおいているという、この微妙な表現は、仲々、翻訳では出来にくいかもしれない。
もちろん、英語は「イエスorノー」であり、表面的には簡明かもしれないが、単相的、単純な発想でしかない。ただ、こうした二者択一の方が却って良いケースも間々あるが、少なくとも日本文化や日本独自の技術・思考方法を表現するのには、却って逆効果であり、誤解を招く恐れが十分にある。
つまり、何故に二者択一は日本文化には受け入れられにくいのかというと、旗幟鮮明にしてしまうからで、ファジーな要素がそこに入り込んでくる少しの余地さえもないからである。ファジーという言葉が流行って久しくなるが、このファジーな所にこそ、日本文化・技術の粋があると言っても良い。
度々、拙著からの引用で恐縮であるが、その序文に「本阿弥家の御家芸は正宗である」と書いたが、この英訳は6年前に刊行された英訳版では、おそらく私の真の意図の全部を完璧に表現出来ていない様である。
日本人ならもうおわかりになるかと思うが“御家芸”という表現には少し批判・皮肉が入っているのである。つまり、本阿弥家と正宗に対する批判と不合理性をうまく、柔らかく含ませた表現である。こうした点がファジーな所の一つと言えよう。しかし、ここは一番大事な所でもある。
(文責・中原信夫)