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INTELLIGENCE

♮ 焼落について再度(続)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前稿で伯耆安綱の焼落について、『埋忠銘鑑』からの押型を呈示して少し述べましたが、『埋忠銘鑑』は筆写本でもあり、正確さに欠けるとの指摘もあろうと存じます。これは確かに正論でありますが、埋忠にしろ、殊に本阿弥家は刀のプロですから、中心の状態、例えば生中心の時の刃区下での焼元(やきもと)や、刃文(匂口)の状態については敏感である。したがって、筆写して、その回数も多いと考えても、大事な点は文字で示してあるのがあり、「焼身」や持主・依頼主などの注記もあり、大変参考になる。

 

さて、次の押型(5)を見てください。これは『埋忠銘鑑』にある郷義弘の中心押型(絵図)であるが、興味深い書入がある。表裏の中心(なかご)の間の書入で行の棟の図示があるその下の一字はちょっと読めないが、どうも「江」とあったのかと思われ、「江」は「郷」に通じる。その下は「はちやかう 慶長十六年正月 ニ 金具寿斉仕申候 長サ弐尺弐寸」とある。そして、表の中心の左側下に「秀頼様ヨリ すり上明寿」との注記がある。この刀は名物・蜂屋郷(江)で焼失したとされる。

その中心の表裏を見てください。刃文が中心の中程、上の目釘孔の下あたりまで描いてある。これは大変重要である。「スリ上明寿」とあるから埋忠明寿が磨上たのであると解釈しなければならないが、その磨上る前の刃文がかなり残されて描かれてあるという事は、埋忠も、この点については最初から筆写といっても正確にやっていた証拠となるし、筆写を重ねても、その点は十分に注意しているはずだし、現にそうである。

因みに、(6)を見てください。これは剣掃文庫旧蔵本での(5)を同じ蜂屋郷の中心押型であります。(5)にない注記は「ひ」と「ヤ」でありますが、「ヒ」は樋、「ヤ」は焼身になったとの事です。

つまり、前稿で安綱の鎺元には焼落を示す刃文の描写は全くなかったことを思い出してほしい。ちゃんと区別して描いているのでなければ、わざわざ(5)のような刃文の匂口は描かないのであるし、「すり上」と注記しているのは、それをまさに証明している。

 

以上から考えて、前稿の(1)・(2)は現在の状態であり、(3)・(4)は少なくとも江戸初期の状態であったのに、その間におそらく焼身となり再刄されたという考え方が十分に成り立つ。

ただ、(3)・(4)が現代によく行われている石華墨等の押型ではないし、筆写本の故に不正確との指摘を覆すというか、それは間違った指摘であるという事を証明する状況証拠を(5)・(6)で呈示した。

 

これで、安綱の焼落については言及はしないが、もう一つ大事なことがある。それは『埋忠銘鑑』にある豊後行平の太刀であるが、数振が所載されているが、それらのいづれもが焼落を示していない。

これはどう考えればいいのであろうか。たまたま焼落のない行平が描かれたのか、という事も考えられるが、古い昔であればある程、行平の焼落は有名であるので、描かれていて当たり前であろう。もっとも、所載の行平が全て正真とは限らないのであるが・・・。ただ、日刀保の学芸員(全部の学芸員ではないと信じるが)なら、「焼落のあるのも、また、ないのもあります。」というのであろうか。

いづれにしても、合理的に考えてみることが、刀剣界を本当にわかりやすい社会にする一歩かと考えています。
(文責・中原信夫 平成三十年六月十五日)

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