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♮ 一振の追憶 その23(下坂茂勝作)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀  銘
下坂茂勝作

刃長/二尺三寸一分、反/五分五厘、本造、行の棟、中心は殆んど生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
小板目肌がやや粕立つようになり、鎬地は柾目肌となる。
[刃文]
小沸出来の直弯乱に五の目乱が交じる。総体に帯状の匂口が出て、表裏が揃う。
[鋩子]
直状で帯状の匂口となり、沸が本刃より少し荒目となり、先はやや中丸風となり、返は深い。

下坂茂勝といっても殆んど衆知されていませんが、筑後国柳川住です。時代的には寛文頃を少し下った頃かと思いますが、刃文の匂口からみると、まさに肥前刀に極めて近い作風です。強いて言うならば、筑前信国吉包あたりに見紛うものですが、ただ、帯状の匂口があるのは肥前刀に限らず、北部九州の刀工におしなべて出ると言ってもよく、筑後国でいえば鬼塚吉国、筑前国では信国、石堂一派、そして同じ下坂一派、そして豊後国藤原髙田一門という事になります。

因みに、長門国の新刀・二王清重などにもありますし、大坂新刀や南紀重国、江戸法城寺一派にも見られるのです。その原因は地鉄の組合わせ方法によると思われ、地鉄の質にも少し原因があると推測しています。

 

さて、この下坂一派はもとは越前であり、下坂というおそらく大工房集団の出身。同じ柳川には肥前の初代行広門人と云われる忠親(八郎左衛門)や茂親などがいますし、隣国の筑前下坂もいます。つまり、下坂刀工は全国に移住していることになり、私達が考えている以上に大きな存在として研究しないといけない一大流派なのです。

 

さて、本刀の刃文を見てください。刃区部分で刃文が落ちているというか、そこから焼き始めています。これは何を意味するのでしょうか。

本刀はほんの僅かに区送されているのは目釘孔の位置からわかりますが、その目釘孔が少し刃方へ寄っていることから、本刀の鎺元あたりは相当減っていると考えられ、中心の刃方の線を見ると目釘孔の下あたりから、やや直線的となっていて、棟の方へほんの少し偏ったものとなっています。つまり、刃区あたりから焼き始めている刃文は?ではなく、逆に“生中心”であるという事になります。

したがって、刀を磨上たと称する作例で本刀の様になっているのは、極めて不審であることになります。また、武用を考えて余り刃区辺を深く焼かなかった刀工の考え方とも思われます。既述稿の加州景平の大小がその好例かもしれません。
(文責・中原信夫)

 

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