INTELLIGENCE
♮ 金象嵌について
Copywritting by Nobuo Nakahara
刀の中心(なかご)に金象嵌を施すという事は、桃山〜江戸時代に入って流行っています。本阿弥家の極を金象嵌で入れたりするのがありますが、江戸時代以前の例は至って少ないのです。
刀の中心に金象嵌を施すのには、第一に極を刻するのがあり、第二に斬味を刻するのがあり、この方が一番多いといえます。他に伝来や刀の別名や所持者名を刻したものが皆無とはいえませんが、殆どないに近いでしょう。
基本的に斬味について金象嵌を刻するのは、中心自体にまだ錆がついていない時、つまり、中心がピカピカに光っている作ったすぐに刻するのが前提です。
その理由は何か。中心に象嵌を施す場合は平象嵌しかありません。平象嵌というのは簡単にいうと、中心の表面を字体のとおりに鏨で細い溝のように彫り取って(下げて)いくのですが、溝のようになったところに「金」を埋め込んでいくわけです。この字体が太いとそれだけ「金」が脱落しやすくなり、すぐに抜け落ちたら困るので、字体は細く、深く彫りとっていきます。そして、中心の表面に「金」がほんの少し突出したのを鑢で削り取って、中心の表面と同じツラ状態に平面に仕上げるのですが、すでに中心には鑢目が施されているので「金」地にのみ鑢をかけて削り取らないといけません。従って、中心の鑢目と同じ角度、方向に向かって「金」の表面を削り取る難作業をしなければならないのです。もし、古い錆が中心にあれば、万が一、その古い良い錆を削り取ってしまう恐れも十分にあります。だから、この手の金の平象嵌は、主に截断銘においては、刀が出来上がったすぐか、まだ錆がつかない時期にのみ施されると思われます。
こうした前提から、よく年紀の少ない刀工の詳しい作刀年代を確定するのに、この截断銘が利用されるのです。つまり、截断銘(金平象嵌)は製作時期と殆ど同一か、それに極めて近い頃との見方が応用されるのであり、決して間違ってはいません。
さて、この金の平象嵌ですが、相当な技術力のある工人でないとできません。では、例えば虎徹を始め、江戸新刀に金平象嵌による截断銘は多いのですが、当然、江戸で試斬が行われていることが圧倒的に多い。すると、この象嵌の細工は江戸でやるのが一番合理的ですが、こうした細工を誰がやっていたのでしょうか。つまり、埋忠家の門流がやっていたのでしょうか。確かに、『埋忠押形』(これは押形本ではなく埋忠家の細工帳)によると、江戸でそうした細工を施した記述はありますが、この場合は本阿弥家の極めた内容を金の平象嵌でやっています。しかし、この江戸における埋忠一族の様子がまったく捉えられずにいるのです。
本阿弥家と埋忠家は昔から表裏一体の関係であることはよく知られた事実。では截断銘の工作も埋忠一族はやったのでしょうか。これを証明する証拠はまったく伝わっていないと思います。また、享保頃に本阿弥家と吉岡因幡介が、無銘極の象嵌料についてトラブルになった記録が『本阿弥家の人々』に紹介されていて、つい最近も日刀保『刀剣美術』でも学芸員によって紹介されています。吉岡因幡介の家は、本阿弥本家・後藤本家と同様に幕府のお抱え金工です。
本阿弥家からの象嵌細工の仕事は、最初(京都時代)は埋忠で独占的にやっていたが、江戸に移住した後、少なくとも元禄頃は吉岡に移っていたらしい・・・そうすると元禄頃には埋忠家は消滅していたのかと思われますし、あるいは、技術が劣ってしまっていたのかもしれません。
いずれにしても、刀の中心に施す金の平象嵌は極めて高技量な細工であることを認識してほしいのです。また、金平象嵌の字体そのものが、時代が下がるにつれ太くなりますが、これはあまり褒められたものではないでしょう。
(文責・中原信夫)