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INTELLIGENCE

♮ 仙台・本郷鍛冶と初代国包について

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

本欄「一振の追憶」(その三)で京の三品一派・越中守正俊の弟子になったとされる仙台国包(初代)の事、そして、伊予国宇和島へ移ったと思われる初代国包と同じ鍛冶群であろう国房(初代)について推測を述べてみたいと思います。

本年(平成二十九年)六月に、宮城県の塩竈神社に参拝した折、地元の愛刀家の御二人とも少しお話をしたのですが、地元・仙台近辺の方々も仙台刀工は初代国包を出発点・原点としてしか捉えておられないようで、失礼ながら私には何となく腑に落ちないのです。当然、地元の方々も国房(初代)の存在を殆んど気にしておられないようであったので、何かの参考にと思ったので、以前、『刀剣と歴史』に寄稿した「伊予国宇和島刀工・国房・国林について」という拙文のコピーをお送りさせていただきましたが、何か貴重な資料が出現しないかと地元の方の反応を大いに期待しております。

 

さて、仙台藩主・伊達政宗は天正十八年に、葛西・大崎両氏の後、陸奥二十郡・五十八万石として引継ぎ、その後の慶長六年、青葉山に築城、地名を千代(せんだい)から仙台に改め、城下町を形成しました。また、慶長十九年には政宗の長子・秀宗が伊予国宇和島十万石に封じられます。

では本題に入ると、初代国包は二十三歳(慶長十九年頃)に越中守正俊に入門したとされます。初代国包は本郷氏であり、伊達政宗入封以前、仙台近辺を治めていた国分氏の範疇にあった鍛冶群の一人と思われますが、慶長元年に政宗は国分氏を放逐しています。

そこで、前述の越中守正俊の年紀は慶長二拾年正月です。初代国包の入門が所傳通りなら、入門直後の正月に正俊はこの脇指を作ったのであり、しかも正月打ですから、何らか大きな意味合をもっと考えられるでしょう。しかも、この脇指は柾目肌です。勿論、初代国包の柾目のように整然とした柾目肌ではないのですが、慶長二十年以前に正俊に柾目肌の作刀が現存するのでしょうか。

 

私の記憶では柾目出来は存在したとしても極めて少ないように思います。正俊は関出身ですから、柾目肌はあっても決して不思議ではありませんが、初代国包のような整然とした柾目肌は今のところ見た事はありません。つまり、柾目肌の鍛法は正俊が初代国包に教えたのか、または逆に初代国包が師とされる正俊に教えたのか、いずれかでしょう。しかし、柾目肌の整然さと現存刀数からいって、私は初代国包が正俊に教えたと考えるのが順当と思います。それは、正俊に師事したのなら、初代国包に正俊直傳の作風がある筈なのにそうした作風は国包にはないのですから、どうみても私の推測の方が可能性が高いという事になります。では慶長十九年に入門し、元和五年に仙台に帰った(これについては確証はないとされる)初代国包は、二回に分けて足かけ五年程の入門ですが、その時に正俊から定俊という刀工銘をもらったとされますが、定俊銘は見た事はありません。しかし、初代国包は正俊に入門する以前から柾目鍛をやっていた可能性がなければ私の推測は成り立ちません。誰から初代国包は作刀法を習ったのか、それは国分氏に抱えられていた本郷氏を称する先輩の鍛冶群であろうとする他はありません。これについては、ほぼ同様の説が『仙台刀工のあしあと』(庄司恭氏著)で既に述べられています。

 

では、前述の宇和島へ入った初代・国房ですが、この国房には未見ながら元和二年紀の作刀が現存します。つまり、伊達秀宗が宇和島入封の翌年の作です〈押型その二〉。その銘字は雄渾であって、おそらく壮年期のそれと思われますが、国房(初代)に本刀以外の年紀は未見です。従来の諸本・銘鑑では、この初代国房の出自について、堀川説や髙田説がありますが、私は「国」の銘字から、初代国包と同族という推測を前出の拙文中で述べました。理由は簡単で、全く地理も人情も国情もわからない、まして歓迎される筈のない遠く離れた地方に乗り込むのに、自前(伊達氏配下)の刀工の少なくとも一人や二人は帯同していかないと、全く話になりません。

現に、伊達秀宗は宇和島移封に際し鉄碗鍛冶を帯同している事実があるようです(『郷土の刀工 筑後守国房の研究』末光高義氏稿『刀剣美術』128号)。これを考えれば、私の推測に全く無理はないし、末光氏も初代国房は伊達秀宗が帯同してきたと認めておられます。ただ、国房の出自には結論を出しておられません。

したがって、国房は本郷鍛冶の一人であり、初代国包は国房の後輩ぐらいにあたると推測したのです。それは初代国包の山城大掾受領が寛永四年であること〈押型その一〉からの推測でもありました。

 

ただ、この私の推測で一つ弱い点があります。それは初代国房が柾目鍛を残していたのなら、私の推測はほぼ完全となるのですが・・・。

となると、やはり一番のポイントは本郷鍛冶群の存在でしょう。どうしても伊達政宗の仙台入府以来の事にしか衆目は向きませんが、それ以前から仙台地方に豪族はいた訳で、それらの豪族は当然、刀工集団というか、鍛冶集団を養っている筈でなければなりません。それに該当する本郷鍛冶群もまた、誰かに習わないといけない事になり、刀工一人の観点から歴史を俯瞰することは間違っています。その刀工一人よりも以前からの、その近辺の政治・経済・流通などの大きな流れの一コマで刀工がいるのであり、私たちは今まで刀工のみの系譜にしか頭が廻らなかったのが一番の欠点であり、これからはそうした総合の歴史から刀工群(集団)を俯瞰しなければいけないと考えています。

 

因みに、初代国包の弟子とされる人達には当然、柾目鍛があります。涌谷住包重と刻った脇指を40年程前に九州熊本で経眼していますが、初代国包以前の真の系譜を今となっては探る方法がないかもしれませんが、一つだけ考えられるとすれば、仙台近辺の室町末期以前の荘園の歴史が唯一の鍵となる可能性を少ないかもしれませんが期待したいと思います。ただ、この点についての調査・研究は私にはとても無理であり、専門家の御教示を待つのみです。

最後に、最近、初代国房の片切刃の刀〈押型その三〉と大身槍〈押型その四〉と脇指〈押型その五〉を経眼したので、読者の参考にと思い掲載させていただきます。また、初代国房や同族と思われる国林(くにもり)などの作例を紹介していただきたく、御一報をお待ちしています。

尚、初代国包の寛永四年紀は最古の年紀と思われますので、紹介しておきます。

今回の拙文は、参考文献として、『日本刀大百科事典』・『京都の刀剣』(ともに福永先生著)および、『仙台刀工のあしあと』(庄司恭氏著・一九九四年刊)等を参考にさせていただきました。
(文責・中原信夫 平成二十九年十月三十一日)

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