中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

♮ 肥前刀工の使用鉄の輸送ルート

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

先日(平成二十九年三月)、九州地方の研究会を廻らせていただいて、大分県内での例会の折、肥前刀工の使用した玉鋼の話になりました。肥前刀は数多く存在しますが、肥前国内では玉鋼は製産していません。したがって、他国から購入していた事になりますが、『肥前の刀と鐔』(昭和四十九年・雄山閣刊)に、近江大掾忠広はじめ四人の連名で、藩から借金までして石見国へ鉄を仕入にいきたい旨の古文書が残されています。つまり石州へ買いにいったと思われるのは出羽(いづは)鋼であり、路銀の借入申入は天和二年(一六八二)十二月のことです。

 

この時の買い出した時の事かどうか私の記憶がはっきりしませんが、出羽鋼は筑前国博多に廻送されたようです。そして鍋島藩の役人が博多まで行って確認し受取っているという内容(文書)であったと思いますから、石州からは一般の廻船で博多に運んだ可能性が高いと思います。

どうして博多であったのかというのが、私にとっては不思議だったのですが、その研究会の帰途、宿舎まで私を送っていただいた真野和夫氏が、「何故、博多に廻送したか不思議という点は、すぐに理解できますよ・・・」といわれた。私はその理由を聞いて、なるほどと合点しました。

 

真野氏は博多生れで、考古学を専攻され、その著書に卑弥乎の邪馬台国に関する論考を出版されていて、例の『魏志倭人伝』での“水行何日とか陸行何日とか・・・”という記述を不合理とする従来の考え方を覆された。その一番の論点と、私が何故博多にという?とが一致したのでした。つまり、博多から御笠川(高低差が余りない)を遡り、その上流で陸に揚げ、1km程陸送すれば、有明海にそそぐ筑後川の支流の宝満川の上流になります。そこから舟で宝満川〜筑後川を下れば鍋島藩領の諸富(もろどみ)で、そこから佐賀平野にはりめぐらされた水路で行けばすぐ佐賀城下です。

こうした地理的に最も合理的な最短ルートがあったのです。このルートでずっと出羽鋼を佐賀へ運んでいたと考えられます。もし、このルートがなければ伊万里港(唐津は他藩)へ廻送するしかないので、伊万里から佐賀までは山越えでもあって長距離になりますし、唐津にしても同様です。また、外海の東支那海廻りで有明海というルートは危険かつ長距離すぎます。

つまり、前述のルートが一番速く手間もかからず、安全で合理的なのでした。

 

私は全く気付きませんでした。博多から太宰府近辺、鳥栖あたりから佐賀への陸路は一番考えられますが、長距離を人力で運ばざるを得ないし、黒田藩内や対馬藩の飛地等の陸上を通る事になり誠に厄介です。太古の昔から水上海上運送は一番の主流です。御笠川と宝満川との地理的関係も私は考えつきませんでした。この近辺で育たれた真野氏はすぐに気付かれたそうです。

真野氏の教示によって、一番考えられるルートの可能性の証明を私自身がこれから現地調査を出来るだけやっていきたいと考えていますが、一応、途中経過として報告しておきたいと存じます。〈平成二十九年四月〉
(文責・中原信夫)

ページトップ