中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その35(資正作)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

短刀  銘
資正作

刃長/六寸六分二厘、反/僅か(先うつむく)、平造、真の棟、中心は生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
杢目肌が総体に柾目状に流れる所が多く、肌合は粗。
[刃文]
匂出来、弯調に五の目乱(尖り心)が交じり、刃中に小足が入る。表裏揃い心の刃文となる。
[鋩子]
崩れ心の乱込で深い。先は小丸で掃掛が烈しく、返は殊に深く、棟焼あり。

資正は「スケマサ」と訓み、和泉国・堺の刀工とされますが、居住地を刻った銘は経眼していません。また、現存刀は極めて少なく、本刀はまさに好事家の好む作であり、極めて好ましいものでもあります。

同じ堺には正清という刀工もいます。古くから資正などは末手掻の系統ともされますが、全く不明。ただ、本刀を見ると美濃伝臭は強くありますが・・・。

 

では何故に堺に刀工が居るのかなのです。居るというより必要とされたので居たという事になります。つまり、堺という地に鍛刀地があったのが本当とするなら、それは貿易港としての地位が高まったからでしょう。

当時の堺は自治権に近いものを持っていたとされますから、当然、武器は必要となります。しかも鉄砲も有名ですから、鉄関係(鍛造)は発達し、需要もあることになります。また、未見ですが手持の資料押型に「泉州住包真作」(享禄四年紀)の作刀があるようですので、堺とは刻ってはいませんが、大和国手掻系の移住の可能性が前述の様に考えられます。

 

室町中期以前は、海外貿易は博多が中心でしたが、後に外洋を通る別ルートが開かれ、その終起点が堺になったといわれています。千利休も堺出身であり、多くの豪商(海外貿易)もいます。こうした膨大な利権を生む土地を守るためのものでしょうか。

因みに、本刀には戦前から戦後にかけての刀剣商で本阿弥光遜門下の林田 等(号・蘇堂 現・熊本県八代市日名久出身)の鞘書があります。
(文責・中原信夫)

ページトップ