中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

♮ 刀・無銘兼光の伝来

Copywritting by Nobuo Nakahara

以前、本欄に掲載の「一振の追憶・その11(無銘・兼光)」について、新しい事実がわかったのでお話をしておく。

本刀は現在、特別重要刀剣に指定されていると思いますが、重要刀剣・特別重要刀剣の指定書に、本刀に付帯している古折紙(拙著に写真掲載)の説明の有無は承知していませんが、実は本刀の刃長と古折紙の記載寸法が相違していたのであります。つまり、現在の刃長は二尺四寸弱でありますが、折紙には二尺三寸九分半と記載されていて、理論的に逆であれば何の問題もないのであります。私が本刀をお預かりした時から、この寸法の相違(刃長が現在の方が五厘程長い)についてはかなり気になっていましたが、まず理屈的に考えられるとすれば、第一にこの古折紙は偽物である。そして第二には俗にいう“付折紙(つけおりがみ)”であるという事が可能性として考えられます。

では第一番目の偽折紙かという点は100%ありません。紛う事のない正真の折紙であります。紙質・墨色・書体全て問題はありません。となると、二番目の付折紙というケースが浮上してきます。

 

付折紙とは、折紙は正真であるが、その折紙が発行された現物の刀ではなく別の刀に付属させていたという意味である。したがって、私もこれ以上の詮索は不可能であったが、私が初見(平成七年)の折に直感で大名物(だいみょうもの)という感が強かった。それは無銘ながら確かに磨上られた痕跡の残る中心で、乱移があり、備前の南北朝頃は十分に首肯できるからであったし、白鞘も所謂、大名鞘と称される種類のものであったからで、加えて何よりも古折紙が付帯していたからでもある。ただし、初見当時は昭和二十六年の日刀保の貴重刀剣指定(俗にいう白紙〈しろがみ〉)である。つまり、本刀は丸特(特別貴重刀剣・青紙〈あおがみ〉)にもなっていなかったのである。

その貴重刀剣認定書には「一、刀 磨上無銘 兼光 長 貳尺四寸」としてあるが、よく伝兼光あたりの極で逃げなかったと思うが、これは、おそらく古折紙の存在があったために、日刀保の審査員は結果的に古折紙を尊重しながら上手くそれを楯にとって、古折紙が付帯しているから、折紙の極に同意という態度を示したと思われる。

それにしても本刀の傅来が全くわからないのは一番の?であった。それから本刀は兼光極のまま重要刀剣・特別重要刀剣に指定されたと聞いていて、やっと正当に評価されているようであり誠に嬉しい限りである。

 

では本題に入ると、本刀の古折紙についてはずっと私の頭から離れないでいたが、本年(平成二十九年)十月二日に島根県安来市の和鋼博物館を訪れたが、その折に『本阿弥留幉之写』(今村長賀筆)を拝見させていただいた。この本は剣掃文庫の旧蔵であり、今村長賀自筆本である。剣掃とは村上孝介先生の号で、昭和十八年に当時の和鋼記念館(当時)に村上先生が納入された膨大な古書籍が、現在の和鋼博物館の所蔵となっている。また、日刀保が東京国立博物館

(地下)から代々木へ移転(昭和四十三年頃)した折にも剣掃文庫から日刀保への多くの古書籍が収められた。

 

さて、『本阿弥留帳』は関東大震災(大正十二年)で全部が焼失したとされていて、多分そうであろうが、大震災以前にその『本阿弥留帳』の一部を書き写した写本がほんの少しであるが現存する。当時、『本阿弥留帳』を所持していた本阿弥琳雅は機関誌の『刀の研究』に大正十一年八月から古い時代の一部を公表している。詳しくは『本阿弥家の人々』(福永酔劍先生著)を参照していただきたい。

では本年十月二日に和鋼博物館で拝見した『本阿弥留幉之写』を読んでいたら、ハタと私の目が釘付けになったのであった。今村長賀はその巻首に“備忘録巻ノ二”という書入をしているので、『本阿弥留帳』全部を写したものではないという事になる。内容は独特な達筆でしたためてあり、現存の刀に附帯している折紙の照合依頼を受けた折のメモであろうが、年代が享保・寛文・寛永・元禄の項が書かれてあり、中には延享・宝永の項も散見され、今となってはごく一部分にしても貴重なものである。また、明治頃に使われていた刀剣用語が書かれていて参考になるし、中には「若狭正宗」の由来も詳しく書かれている。

 

さて、そこに

「備前国兼光 正真 長サ弐尺参寸九分半 表裏樋 磨上 無銘也」

「代金子 弐拾枚 延寳貳年寅九月三日 本阿(花押)」の項があった。

そして「(明治)四十三年五月十五日 一木喜徳郎(いちききとくろう)老より」との今村長賀の書入がある。つまり、今村は明治四十三年十二月二十七日没なので、この書入は今村の絶筆に近いのかもしれない。明治四十三年五月十五日に、一木喜徳郎より今村に問合があったという意味。つまり、本刀は明治四十三年頃は一木喜徳郎氏の所有という事になり、その一木の問合に今村が本阿弥琳雅に『本阿弥留帳』での刀と折紙の照合を依頼した事になる。

その回答には

「本阿弥成善(琳雅)の返書に曰(いわく)、延寳二年の代帳兼光取調の所 寸法相違致したる共、是より外に無之候、・・・(中略)・・・是に違ひ無之候得ば・・・(後略)・・・」

とあり、大事なのは「松平大蔵より来る」との『本阿弥留帳』での書入である。この無銘兼光は古折紙の内容から寸法が相違するだけの違いだけであり、本阿弥琳雅もおそらく現物の刀を見ての回答であろう。

 

これを読まれた本欄の読者は、完全に理解しておられないかとも思いますので、一応説明しておきますと・・・

『本阿弥留帳』には何が書かれていたかというと、刀の作者(在銘・無銘)そして当時の提出者、寸法等が書かれてあり、折紙、下代(さげふだ)の格付(金子、稀に銀子や貫)が当然書かれているが、それだけではなく、刀の疵が殊に細かく書かれていて、刃文の匂口や地肌の状態も詳しく記入されていたが、むしろ、疵の状態がメインであり、後日の照合や代付変更の折の極手(きめて)にしていたはずである。

本阿弥家は研師だけに元来から刀の疵には殊に敏感で、以前に極めた刀と同一か否かを疵で再確認していたのである。同じことは村上先生から私がよく聞かされていたのであり、村上先生は本阿弥光遜からよく聞かされているはず。また、光遜は『本阿弥留帳』を若い時に書写したと聞いているのだが・・・。

したがって、この今村長賀の書入には刀の疵が克明に書いてあり、これは『本阿弥留帳』からの写しである。実はこの疵の状態が全てピタッとこの無銘兼光と合致したのである。当然、本阿弥琳雅も完全に合致したのを確認して、寸法は違う(折紙発行時より長い)が絶対に同じものは出来ない疵があり、当該刀と認めているのである。

これで本欄所載の刀 無銘兼光は完全に古折紙付という事になり、傅来もはっきりしたのである。ただ、現在の本刀の中心(表裏)には朱漆の痕跡がごく一部僅かに看取されるが、肉眼では判読不可能。この点について『本阿弥留帳』にも記載はないようなので、おそらく少なくとも延宝二年以降の朱漆かと考えられます。さらに言うなら、可能性の一つとして『本阿弥留帳』にて照合済・折紙付という内容でのこの時の朱漆書であったかも知れない。

 

さて、“松平大蔵より来る”との『本阿弥留帳』の書入である。松平大蔵とは松平(前田)大蔵大輔であろう。この人は越中国富山藩二代目藩主の人で、古折紙の延宝二年には二代藩主となっており、大蔵大輔にも既になっている。加賀前田家の系統なら、本阿弥家には大いに縁があるし、本家の加賀藩には本阿弥光二、光悦はじめ本阿弥光甫が抱えられている。したがって、本刀の折紙発行には光甫経由の可能性もある。これで傅来は判明した。

 

では最後に、今村長賀、一木喜徳郎について書いておかなければいけない。今村については明治の大鑑定家として有名であり、「中央刀剣会」設立(明治三十三年)者の有力メンバーであり、一木も同じく設立発起人の一人である。  今村長賀は土佐出身で藩士、天保八年生、明治四十三年十二月二十七日に死去しているが、鑑識力は高く、現在の刀剣学の基を築いた人でもある。宮内省御用係、九段の遊就館取締役、臨事全国宝物取調鑑査係、宮内省御剣係を歴任。古剣書の収集や『今村押形』・『剣話録』を残す。当然、本阿弥成善(琳雅)とも親しく、よく琳雅の研場に通ったとも聞いている。

一木喜徳郎は慶応三年生、昭和十九年没、静岡県出身。経歴は内務官僚で法学者。後に政治家となる。男爵。因みに、「中央刀剣会」第五代会頭となっている。六代目は土佐出身・山内豊景侯爵。

「中央刀剣会」とは、明治三十三年に当時の政財界の人達を中心に設立した刀剣会で、確か宮内省から毎年御下賜金を頂戴していたはずで、それは大正三年ぐらいまで続いていると思う。設立発起人には犬飼木堂(毅)や今村長賀、松平頼平をはじめ、谷干城、西郷従道、岩崎弥之助、三宮義胤、朝吹英二などの豪華メンバーであり、初代会頭は有地品之允男爵であり、事務所は東京・九段の「遊就館」におかれていたが、終戦直後には神田駿河台「日本医師会館」に移転、その後(昭和二十一年後半)解散している。

終戦後、解散団体に指定されるのを恐れて、網屋惣右衛門(小倉陽吉・刀剣商)と村上先生が中央刀剣会の全ての職務の引続をされて「日本医師会館」に転居したのである。どうして「日本医師会館」に事務所を移したのかというと、村上先生が「日本医師会館」の重鎮であったためである。尚、中央刀剣会の会頭印はじめ、重要な印鑑は全て村上先生が長く保管されていたが、先年、村上家から古巣の九段の遊就館へ返還された。機会があれば、この事も書いておきたいが本題から外れるので・・・。
(文責・中原信夫 平成二十九年十二月十六日)

ページトップ