INTELLIGENCE
♮ 中心仕立の大事さ(続)
Copywritting by Nobuo Nakahara
前回に続いて中心仕立について述べてみるが、私がその中心仕立を全部わかっているということではなく、私は何か見落はないかと中心仕立をあらゆる角度から、いつも見ているということであると理解していただきたい。
中心仕立を終了してから刻銘するのであるから、基本的というか、絶対的に刻銘刀工自身の中心仕立であるということである。したがって、中心仕立に?があれば、刻銘にも当然?がつく。
前回に述べた新刀祐定の呈示資料では、鎬筋と目釘孔との位置、つまり目釘孔と鎬筋の距離である。同じ刀工が仕立をした中心で、目釘孔と鎬筋が離れていたり、逆にくっついていたりした作例を正真としたら、とんでもないことになる。その点を考えず、銘字の一点一画のみを言うのは間違っている。中心の仕立はそれ程、大事中の大事である。
戦前、清麿の中心仕立で、藤代義雄が「目釘孔が鎬筋と離れたるをよしとす」と著述した。これは、伝聞形式の文言であるが、清麿の鎬幅は狭い造込(仕立)なので、当然、目釘孔と鎬筋とはくっつかない。理屈を言えば何も藤代義雄の大発見でも何でもない。当然の理屈であるが、それさえ現代でも無関心であり、藤代義雄の強調した点を無視して、違反した作例(中心仕立)を展覧会に展示し続けている。これでは藤代義雄も情けなくて、「今の奴らは、俺が言ったことや、俺の名前を都合よく利用し、肝心の見所には目を向けない」と、あの世で好きな酒を飲みながらブツブツとうらみ言をいってクダを巻いているかも?!・・・。
このように、中心仕立にも理屈がある。しかも、熟練した手作業のものであるから同じ刀工の中心仕立には、年代により多少の変化は少しはあっても、目釘孔と鎬筋の離れ方がマチマチであるなどという事はない。まして、末備前のように分業とされていればいるほど、不合理な仕立はない。
また、中心の肉置についても、刀工は自作であることを証明する刻銘を施す唯一の場所である中心であるし、武器としての機能・実用性を最重視する大前提からみても、丁寧・入念に肉置を施し、他の刀工作との違いも加味し、独自の形状(仕立)とするはずである。
ただ、私は銘字がどうでもいいとは言ってはいないし、言ったこともない。順序を守る、つまり、絶対変わることのない順序を追って考えていくことだけを主張している。
因みに、刻銘で一番正確かつ上手な刀工は、新刀では助広・真改・虎徹などであろう(ただ、肥前刀は除く)。新々刀では清麿・信秀・水心子正秀・直胤・月山貞一など。しかし、他の刀工が下手なのではない。加えて謹直なのは清麿であろう。
銘字についていうと、時代が新しくなるにつれて、字体そのものは上手になっていくが、逆に鎌倉時代の銘字のような風情(ふう)はなくなる。この点が一番わかりにくいし、反対にこうした点を捉えれば銘字を理解・判別しやすくなってくる。
(文責・中原信夫 令和元年十二月四日)