INTELLIGENCE
♮ 入札鑑定会での方式と同然表〈その一〉
Copywritting by Nobuo Nakahara
現在に至るまで、長く続けられている入札鑑定研究会での方式について、あらためて私の考え方を示しておきたい。
その前に「刀の入札鑑定」とは如何なるものであるか。殆んどの方は出品された鑑定刀の作者名をズバリと当てるのが入札鑑定と思い込んでおられるはず。しかし、それは少し的脱(まとはずれ)であることは後述する。
さて、認定書・指定書発行の際にはこの鑑定が行われるが、在銘は正真か否かであり、無銘はその製作年代と国・流派と個名(刀工)の推測・特定であるが、入札鑑定研究会では、大体は在銘(正真銘が使用されるはずである)が鑑定刀として、判者・講師の責任で出品される。その時は当然、銘字部分(中心)は隠されて出品されるのであるから、端的に言って、無銘刀の鑑定と同じ経過をたどって、刀の製作年代、次に国、または流派を、そして個名を推測し、その結果を判者に提出して回答をもらう。これが入札鑑定である。したがって、入札鑑定においても、出品された鑑定刀の製作年代の推測・特定が一番肝要であり、これが鑑定の90%以上を占めるのであり、該当する作者名の特定はこの次の段階であり、その作者名は結果として次に自然に出てくる。
しかし、現在では作者名を当てるか否かが入札鑑定と思い込んでいる方が多いが、それが根本的に的脱であるということである。一番大事なのは製作年代の推測と特定でしかない。この事を知り抜いていたのが、本阿弥光遜であり、江戸時代以来、この事を最重要に考えて、本阿弥系は入札鑑定を行っている。
戦前の光遜の日本刀研究会等では、日本全国の街道を示したが、これは古刀においては鉄の運搬と経済流通ルートを参考に考えての街道設定であったと思われる。そして、古刀・新刀・新々刀と三区分にして、各々に「時代違(じだいちがい)」という回答をしている。
ただ、古刀は何百年もあり、かなり区分としてはむつかしくなるが、鎌倉時代・吉野朝時代・室町時代・安土桃山時代と大まかに区分しているのは、ベストに近いベターな区分であるが完璧ではない。しかし、これを完璧には処理できない。
では新刀(一応、慶長頃から)と新々刀(一応、安永頃から)であるが、新々刀の終焉を明治十年(西南の役)までと考えると、その期間は約三〇〇年近くある。これを互いに「時代違」として回答しなければ、新刀期なのか新々刀期なのかが極めてわかりにくくなる。
例えば、肥前刀の初代忠吉・二代忠広に八代忠吉・九代忠吉と入札すれば、本阿弥光遜系では「時代違 能候(よくそうろう)」と判者は回答する。これは明らかに製作年代を主眼かつ最重要に考えての回答である。では新刀と新々刀を区別しない日刀保の回答方法では、初代忠吉・二代忠広と八代忠吉・九代忠吉を同然とするのかである。まさか「時代違」と回答したら、古刀の選択肢しか残らないが、古刀期での肥前刀は皆無である。
同じ事は江戸新刀と江戸新々刀にも言える。例えば、水心子正秀の刀に江戸新刀の誰かを入札したら、単に「能候」(正式には国入〈くにいり〉能候)と日刀保は回答するのであろうか。そうなると入札者は江戸新々刀の清麿系か長運斉綱俊・固山系か、はたまた新刀かと考えるであろうが、これでは根拠のない堂々廻りとなる。つまり、鑑定刀が江戸新刀か江戸新々刀かを明確(最低限)に回答・示唆するのは、新刀と新々刀を互いに「時代違」として回答するしかないのである。
入札鑑定は製作年代の推測・特定という事を考えない方法(新刀と新々刀を一緒にと考える日刀保方式)はこの事に全く気付いていないか、無視しているか、またはそうしたくないとしか考えられないのである。これでは入札鑑定の肝心な使命を放棄したのと同じである。
(文責・中原信夫 令和二年二月四日)