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♮ 「六左」という切銘

Copywritting by Nobuo Nakahara

先日、調べものがあって、手持ちの資料、押型、雑誌を色々と探していたら、日刀保の機関誌『刀剣美術』の折込口絵が出てきた。この口絵は色々な意味で大変参考にしているが、毎月、全身押型と説明を載せていくのも、大変な苦労が伴っていると推察している。

 

さて、何年か前の口絵であるが、重要美術品指定の短刀 銘 吉光の掲載を読んでいたら、「(附)埋忠鎺 切付銘 六左」との注記があったのに目が留まった。この吉光は昭和15年9月に東京・亀井茲常氏名儀で指定を受けたもので、現在も重美のままと思われる。この短刀は確か何年か前の大刀剣市だったかで売りに出ていたかと思うが、記憶は曖昧であるので間違っていればお許しいただきたい。

では『刀剣美術』では解説の末尾に「金無垢二重の埋忠鎺が付帯しており、銘文の六左については今のところ不明である」としている。

 

私見ではあるが、「六左」といえば、おそらく片岡六左衛門の事ではないだろうか。

本阿弥光悦の父・本阿弥光二(片岡治大夫宗春の次男)は京都の片岡家から本阿弥光心(本家・七代目)の婿養子として入ったが、後に分家した人である。その出身の片岡家には六左衛門と名乗る人物が二人いる。一人は光悦の養子で本阿弥光瑳の兄・片岡乗信入道ともう一人は乗信の子・片岡乗春入道忠英である。この片岡家は室町時代中期に京都所司代をつとめた多賀豊後守高忠の子孫とされる。

以上の説明は一般的によくいわれる事であるが、本阿弥光悦の娘“くす”が嫁いだのは片岡六左衛忠英であるが、この忠英が所持していただろうと思われるのが、有名な有楽来国光であり、この短刀の金二重鎺に「片岡六左衛門」と刻してあることから、この吉光の鎺にある「六左」というのも、おそらく片岡六左衛門忠英ではないかと思う。いづれにしても、この二人の六左衛のいづれかに該当すると思われる。

 

私は以前、本サイトに”光悦村“について書いたが、この片岡家は本阿弥家よりもはるかに名流であり、京都に古くから根をはっていたようである。また、仮に有楽来国光を所持していたという事は相当の財力と文化的な人脈が多くあった訳で、この吉光短刀も所持していたと考えても不思議ではない。本阿弥光二が光心から独立して別家を設けられたのも、実家の片岡家の強力な後楯・支援があったからであると考えれば、以前から不可解とされてきた光二独立劇の謎は氷解する。

 

多賀豊後守といえば名物・豊後正宗(短刀・重文)を思い出すし、この片岡家の財力と文化度に私は全く気づいていなかったという大きなミスをおかしたと、少し前から後悔している。

また、埋忠に超高価な金鎺を作らせるという事は、ちょっとした大名に近く、埋忠に対する位置関係も考えさせられる。この吉光の金無垢鎺はおそらく台付であろう。台尻(指裏側)に「六左」とあるようで、『刀剣美術』にはその台尻の写真が掲載されているので、そこから「六左」の銘字を一応模写しておいたので参考にしてください。また、私は有楽来国光とこの吉光の鎺は実見していないので、表記の通り埋忠鎺としておくが、おそらく鎺にかけられた独特のヤスリ目から埋忠鎺とみたと思われます。また、鎺の台尻にこのような刻銘をするのは鎺の作者ではなく、所持者の方であるようです。というのは、金工なら独特の刻銘と方法をするものですが、この「六左」の銘字はそのような金工刻銘とは思えないのではないかと存じます。
(文責・中原信夫 平成三十年五月五日)

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