中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

♮ 珍しい鞘書と刀身

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

先日、この白鞘(写真1)を見せられたが、本当に珍しいものであります。では(1)を見てください。本阿弥光遜の鞘書である。「手柄山正繁 長壱尺貳寸八分余 象眼極 昭和癸巳卯月 本阿弥光遜(花押)」とある。この光遜の鞘書は真筆である。昭和癸巳とは昭和二十八年に該当する。というのは本阿弥光遜は昭和三十年没であるからである。つまり、脇指は無銘であるということ。そして「象眼(ぞうがん)」とは象嵌の意味である。

刀身(現在は別の白鞘に刀身は入れられている)については後述するが、まずはこの古い白鞘であるが、(2)を見てください。この白鞘は割鞘(わりざや)状態になっていて、その白鞘の内部に以下の墨書がわざわざ深く彫り込んだ所に書き入れてあったのである。この場所にあるから、これは後日の悪戯ではない。

 

その墨書は「元白鞘ニ曰ク 明治三年午□十月拝領」(※□は閏)、「陛下様ヨリ太政大臣三條實美 記 昭和十九年 斉藤文吉」「東都西巣鴨ニテ造ル」とあるが、三條実美は有名な公家で明治維新の功労者(黒幕という考え方もあるが・・・)。陛下とは明治天皇である。さて、斉藤文吉であるが、この人は鞘職人であって、よく「鞘文」と呼称されたようである。この斉藤文吉について、私は全く知る由もないし、村上先生からも聞いた事はなかったと思うが『薫山刀話』(昭和四十七年 東京出版刊)の169頁〜171頁にかけて薫山(本間順治氏)が書いている。それによると・・・・

「鞘文さんは平井(千葉)さんと名コンビの有名な鞘師でした。・・・中略・・・偏屈な人だったなあ。自分の気に入った人とは話もするが、気に入らない人にはお辞儀もしなければ、話もしない。もちろん仕事も引き受けない、非常に好き嫌いの激しい男でした。だから相ゆるしている平井からまわってきた仕事は優先的に一生懸命やったね。そこで平井の亡くなった後は、もうガックリして仕事に対する意欲がなくなったのではないかな。私も(平井の)葬式に行ったのだが、芝の増上寺で鞘文が本当に嗚咽してましたよ。」
と云っている。また、前掲書ではその斉藤文吉の仕事方法に関しては色々と述べてあるが、斉藤はその後疎開したらしいと述べていて、戦後の消息は不明としている。平井千葉は昭和十一年没と思うから、その後の消息は刀剣人には知らせなかったようで、終焉の地も不明、没年も不明らしい。

 

さて、偏屈な人間といわれると、私も同様で少し耳が痛いが、“江戸っ子”であった鞘文としているが、因みに私はその”江戸っ子”なる気質は大嫌いである。

つまり、(1)の白鞘が、この鞘文の作であることは、その墨書がある部所から確実で、製作年月日と製作地つまり居住地まで記入しているのが貴重である。では何故、本阿弥光遜が死ぬ二年前に鞘書をしたのか。これは光遜が象眼のある手柄山正繁(これは無銘である)をよく知っていたからであると思われる。または、当時の所有者と怩懇であった可能性もある。しかし、昭和十九年七月の製作となれば前掲書にある疎開という時期は昭和十九年七月以降となり、平井千葉没年の昭和十一年から約八年後となるので、この辺の事情は何か脱けているのがあるのかもしれない。因みに、本阿弥光遜と平井千葉は本阿弥琳雅(成善)門下で、下地の光遜、仕上の千葉と評される双璧であって、村上先生曰く、「この二人が手がけた仕事は何をやってあるかわからないから・・・」と、よく笑いながら話された事がある。反対に「この二人の下地研と仕上があって、初めて超一流の仕事が出来る。つまり、二人が協力していないと本阿弥の研を保てないともいえるし、そうするための教え方を琳雅がやったのでもあろう。これは本阿弥家の良い所でもあるし、悪い所でもある・・・」とも述懐された。

この話(村上先生の)を聞いた今の人達は、光遜は下地研しか出来ない。平井千葉は仕上しか上手ではないのかと早合点されるだろうが、そうではない。二人とも下地研も仕上研も超一流であるが、その二人が組んで仕事をしたら、とんでもない化物が出来上がることになるという事である。

 

前掲書の中で本間順治氏は百もこの事を承知しているはずであり、平井千葉の研場に通い、そのうちに研の秘傳まで教わったと述懐しているが、それなら戦後、某研師に研直させたが見事に欠陥が露われてしまった名物・亀甲貞宗(国宝)の無惨さはどう説明するのであろうか。因みに、亀甲貞宗を研いだ某研師(後に人間国宝になった)が洩らした言葉は”この刀は生中心であった“というおまけまで伝聞として国博の当時の技官から聞いた。〈陰の声〉中心の状態(押型)でもちゃんと見れば、大磨上ではなく、生中心とわかる。わかりたくないか、むしろ誰かさんに気を遣ってた?

この亀甲貞宗は本阿弥の古研であったが、同じケースはこれからも十分におこりうると考えられる。それは、最近になって、かなり以前に(戦前以前に)研がれた刀、殊に古刀の古い作を研直す時期がきている感じがするが、上質の仕上砥石もなくなってしまうし、どうするのか。古研を研直したら目もあてられない欠缼が続々と出てくるという事になりかねない。その時は、最新科学を使って修理する方法しかないのかも・・・。
(文責・中原信夫 平成三十年五月四日)

ページトップ