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INTELLIGENCE

♮ 再刃・水影について(続)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

では前稿の本から引用してみると、

「つぎは帽子を、注意してみてほしいのです。帽子の下手なものは上工にはおりません。銘の作位によって、その辺も判断してもらいたいと思います。」 であるが、下手な帽子(鋩子)とはどういうものかを全く示していない。“銘の作位”とは一流か二流、または地方作かを別けて考えろという事だろうが、一流以上の鋩子はどういう形状かを示さないと、わからない。たぶん、”匂口がフックラとして、先は小丸で程よく返った“ものであろう。また、表裏形状が相違するのも決してよくないという事となろうが、“返”が程よくという点では、私は考え方が違う。返の深いものは概ね健全とみるべき(程度はある)であり、当然、鋩子も深いし、適度な先反もついているので先伏し状態の物打にはならない。

 

「また焼き直し物は、刃文だけではなく、姿からも地鉄の面からも、注意してみることが必要です。再刃の場合は、どうしても反が不釣合というか、自然の反ではなく、どこか不自然な反になったり、反が高過ぎたりするものです。 たとえば、腰反で先の方が少し伏せ心になるべきはずの鎌倉初期の作が、高反に過ぎたり、先反になっているのをまま見かけますが、そういうものは、再刃の疑いをかけられても仕方がないと思います。」

この点で、先伏し姿を鎌倉初期と捉えているが、これは現在でも喧伝される点であるが、これは大きな間違いである事は拙著でも度々述べてきた。先反(ありすぎるのは確かに?である)がついているのが生の姿である。つまり、私とは全く出発点が違う。先伏し姿が鎌倉初期の作と断言したら、それは減っていない、変形していないのであると認めたことになる。それが700年前の姿と断言しているからである。では先年亡くなられたキンさんギンさんは十八〜二十歳の頃、腰は曲っていたのであろうか。超高齢であったから腰が曲っていたのであり、他にも経年老化はあったはず。それと全く同じである。

 

ただ、反が深すぎるのは異常な状態という点では確かにそうである。

しかし、高反で先細りのペラペラの三日月宗近をこの権威者?はずっと褒めたたえていたが、自己撞着も甚しい。この権威者?が同書でこの様に述べている。これは大徳川家に調査に入った時の印象を語っている・・・

「いちばん感心し、打たれたような気持になったのは三日月宗近ですね。これはご存知の通りの非常にすばらしい姿をしている。姿の気品の高いことからいったら、おそらく古刀中の第一等じゃないですか」「時代も古いね。」 としている。確かに二尺六寸程で反も高いが先伏姿となっている。では、この三日月宗近は減っていないのか。十二分に減っている。その証拠に先反が取られて先伏というか全くの直刀状となっている。これが平安末〜鎌倉初期の太刀姿というならば、国宝・孤ヶ崎爲次(古青江)はどうなるのか。この孤ヶ崎爲次には適度な先反があるし、中心は三日月とは違って全く異常な所はない。

先伏姿が700年前の姿と考えるから間違うのであり、三日月宗近が異常なのである。先が直刀状になった姿に先反を加えた姿をバーチャルで考えてください。とんでもなく反の高すぎる姿となり、引用文の内容に当嵌る。

本人が国宝に指定したからといって、大徳川家で心を打たれたといっても、こうした自己撞着を起す無茶苦茶な理論と、上品とかの表現のもとに、再刃を講義されたら、たまったものではないが、また、それを何十年にもわたり信じ込んできた人達はどう考えるのか。

では、太刀の先反の程度をどれくらいにするのか。これは孤ヶ崎爲次を基準とするしかない。孤ヶ崎も減っていない事は絶対にない。ただ、その減り方が極めて軽微であるから、基準としなければ他にはないのである。孤ヶ崎の先反(つまり、刃長に対する先反の程度)を基準として、孤ヶ崎の打卸状態を十分に推測できるからである。

 

さて次に棟焼について述べてみたい。では・・・

「また日ごろは棟焼のない作に、棟焼があるという場合も注意しなければならないのです。どうしても新作刀の場合と違って、古刀はとかく多少研ぎ減りになっていますから、重ねが生ぶの時よりは薄くなってしまっている。そこで再刃の場合に、焼刃土が自然と落ちやすいので、棟焼が入る可能性が多いのではないでしょうか。

次はこの作者には見たことがないという変わった焼刃に出会った場合も、十分用心してかからなくてはいけません。」 としている。

「再刃の場合に、焼刃土が自然と落ちやすいので、棟焼がはいる可能性が多いのではないでしょうか」の点であるが、棟焼はどんな名工でも程度の差はあれ必ず入るものであり、再刃だから土落しやすいとか、棟焼が入る可能性が高いとは、全くピントはずれの間違である。現に肥前の忠広に対して鍋島藩の役人が”棟焼が入らぬように“と注文をつけている書付がある。つまり、棟焼が入れば後で消すのである。しかも、棟焼がある刀は研ぎにくいので、研師が消し去る事も往々にしてある。

したがって、700年も前の粟田口と来の区別で、棟焼あるのが来として無銘極で引導がわりに説明するのも、私にとっては漫画チックである。大体、700年間、棟焼を大事に残し続けるのですかね。それに、来の棟焼は刃文のようにキッとした匂口ではなく、湯走状に近いもの、つまり、古伝書の「淡く棟を焼く」という記述が正解であり、淡い焼はすぐに消されるよ。

 

次に「この作者に見たことがないという変った焼刃に・・・」は確かにそうである。ただし、変り出来だからといって再刃と断定は出来ないし、またしてはいけない。こうしたケースも中心の状態や焼落はないか、そして、刀身の減りと比例しない焼巾であるか否かを十分に考慮するべきであるのは言う迄もない。

 

では次に・・・
「それから再刃の刀は、火炎にかかったものが多いので、どうしても肌荒れになって鍛え目がつまっていない例がまま見うけられます。研ぎによってもまちまちでありますが、どうしても地の艶が消えて、冴えが弱くなる場合が多く、注意してみるとどことなく乾いた感じがしてきます。

それからなお注意すべきことですが、地景とか金筋に落着きがなく、どぎつい感じがするのです。なおよくみると、せっかくの金筋が髪の毛を焼いたように、どことなくチリチリした金筋は、まさに致命傷です。」 としているが、「どうしても地の艶が消えて、冴えが弱くなる場合が多く、注意してみるとどことなく乾いた感じがしてきます。」 としている点である。

ここでの”艶“とか”冴え“とかという表現にも困ったものであり、読者の方はおわかりになるでしょうか。確かにそうした事は段々とわかってくるようになっていただきたいのですが、私はそれよりも、最後の文の地景・金筋について述べた内容をもとにして、中心の錆状態、ヤスリ目の残存状態(鮮明不鮮明の程度)、銘字の力強さ等を考えた上、刀身の減り具合と焼幅との比較の方が歴然と肉眼に写るかと存じます。

結論として、焼落とセットの水影があるか、また、再刃しても水影というか焼落からの水影は発生しないケースもあり、焼落が最重要の一つ。そして、中心の錆、表面の状態、刀身の減り具合と刃幅の割合が大事であります。
(文責・中原信夫 平成三十年五月十日)

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