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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その42(備前国住長舩与三左衛門尉祐定)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

今回は末備前を紹介したいと思います。

〈その一〉

 

脇指  銘
備前国住長舩与三左衛門尉祐定
大永二二年二月吉日

刃長/一尺七寸八分、反/六分、本造、真の棟、中心は生で孔は二つ。
 
 
[地肌]
小板目肌が殊によくつみ精美な肌合となる。地移心があり、煙込(けむりこみ)の所作が出る。
[刃文]
匂出来、腰の開いた乱となって、特に上部は焼幅が広く、物打辺は殊に深く鎬筋  を超す。刃中に足、匂崩(においくずれ)が所作し、地に飛焼あり。
[鋩子]
乱込、焼幅広く深い。返も深い。

さて、一般的に末備前の打刀の寸法、つまり二尺前後の作例は比較的見かけることが多いのですが、本造脇指(但し生中心)の作例はかなり少なく、全ての統計をとったわけでもありませんが、私の記憶でも、むしろ珍しい部類に入るでしょう。

汎くいえば、特に室町中期までの作例は少しはあっても、末古刀全般で本造・脇指はどういうものか、意外に作例を見かけません。つまり、新刀期になってなぜ本造脇指が多く作られるようになったのかなのです。

従来の説では商人達が多く注文したからとされますが、これは全くの誤説です。商人は正式な場所では帯刀できません。これは厳然とした当時の制度。新刀期に入って本造脇指が前の時代に殆んどなかったから、新規に注文するしかなかったと考えられます。

 

こうした考え方を裏付けるのが、伊達政宗の振分髪正宗の寓話です。世上、正宗の方に注目が向いていますが、私は“磨上て脇指に直せ”という点に注目したいのです。つまり、石高・格式に応じて同じ部屋になる大大名同士でも、自分の腰物、つまり脇指を抜いて自慢し合うような事は出来ませんし、絶対にしません。あの話は後世の“つくり話”の可能性が高いと思いますが、その中に一つの真実があります。二尺以上の刀を磨上げて脇指にするという事です。もっとも、その日に磨上げても拵は間にあわないでしょう。当分、江戸城への出仕の際の正式指料としては指せないのですから、私はつくり話と言ったのです。

 

さて、本刀は最初にどのような拵に入っていたのでしょうか。それを知る術は全く残されていません。まず、この寸法が珍しいという点からいうと、考えられるのは勿論、特別注文であったという事であり、太刀を佩いた高級武将の腰刀という事でしょうか。脇指と同じ指方をしたものでしょうか。ただし、高級武将はいつも太刀や兜はつけません。いざという前にそれらを身の廻りの世話をする武士がつけてやります。そうだとしても、腰には必ず指していた筈です。こうした種類の拵の中身ではないかと考えられます。当然、高級な拵であったでしょうし、雑兵の使うような拵の次元とは全く違うものと考えられます。

 

この雑兵や、それより少し上の兵が使うのが、世上、“天正拵”と言われるもので、昔は時代拵という感覚でした。したがって、これらの拵は粗末である事は自明の理。鞘は一回だけ漆を塗る塗りっぱなし(花塗)であったはずで、下手をすると漆塗などはしないかもしれず、小柄はおろか笄なども付ける理由がありません。

金具といえば縁ぐらいで、頭は角(つの)で鐔も革であった可能性があります。古後藤の小柄、笄、目貫や鉄鐔などを装着していたと考えるのは、現代の人達や職人の妄想から出た時代拵に対する誤った理解であります。
(文責・中原信夫 平成二十九年八月)

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