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♮ 赤羽刀の審査基準

Copywritting by Nobuo Nakahara

昭和二十一年十月十八日に内務省(当時)で行われた日本側による初めての刀剣審査会合で、戦後の刀の処理・処遇方向が決められた。この詳しい内容については本サイト(刀のイズム・昭和の刀狩)にこの時の資料(文書)を全文掲載してあるので長文であるが、是非一読していただきたい。

そして、この文書の最後に古刀から全国の流派についての項目が付されているが、これが極めて重要である。これは近い将来、登録証発行の時の審査基準であると見られがちであるが、そうではない。裏の狙は直近に迫った赤羽に集積してあった膨大な刀の撰別である。これを処理するための審査基準も、ここに含まれているのである。

 

昭和二十二年五月より二十名の審査員により、流れ作業的に「残す」「残さない」という方式で撰り別けたと村上先生は証言しておられる。そのはずである。三十万本を一々調書などはとっておられない。三十万本の中で五千本であるから、確率としては、重要刀剣になる確率よりもっと低い?!

したがって、それだけの確率で選ばれたのだから超名刀ばかりと思いがちではあるが、昭和二十四年四月に各主要警察署に配布した目録の中に、既に「偽物」と記入したものがある。この目録を製作したのは加島進・霞俊夫といわれている。加島は当時、上野の国立博物館の勤務かと思う。霞は確か研師であったかと思う。

この目録は一般には公開されていないというより、存在そのものを知らない人が殆んど。しかし、この目録は既に政治家主体の永田町刀剣会が存在した頃から宮崎県のK参議院議員の入手したものを、福永酔剣先生が持っておられ、私はそれをコピーした。その目録での内容を見ると、昭和二十一年十月の内務省で行われた会合で配布の文書の最後にあるものと大体一致する。

 

その証拠として一例を挙げてみると、私は長年、豊後刀を研究しているが、古刀・新刀の豊後刀に年紀が殆んどなく、代別研究に苦労する。しかしその目録の中に、新刀高田の年紀付の脇指があり、私は本気で入札してとろうと思ったのである。というのは、当時、この赤羽刀を入札競売する可能性もあるとの噂もあり、私もそう思っていたが、結果は国有化。そして、その年紀付の脇指は大分県宇佐市の大分県立歴史博物館へ譲与され、私はそれらの実物を手にとって押形もいただき、拙著・『大分県の刀』・『続・大分県の刀』に掲載出来たし、代別にも大いに寄与した。この事実からみても、赤羽刀は超名刀ばかりという一般的な考え方が間違っているのである。ここまで書けば、「それは年紀があったので珍しいと思って審査員も隅々残したのでしょう・・・」というヒガミ根性の輩は確かにいるであろう。

 

では、もう一例。赤羽刀の中の豊後刀に日佐正員という刀工の作の脇指が同じ博物館に譲与され、初めて実物に接した時のうれしさは、涙が出るほどであった。この正員(まさかず)は日刀保の丸特審査で昭和三十三年頃一振提出された記録があるが、全く未見の作であった。「日佐」は「おさ」と訓むが、現在の大分市の府内藩の鍛冶で高田刀工とは系統も違うし、藩も違う。それまで経眼した事も、中心押型でさえ公開された事は全くなかった。もっとも、従来からはこの「日佐」は”ひさ“と訓んでいた状況であり、系統もまったく不明であったから、一般的知名度はゼロである。しかし、この正員が赤羽刀にあった。こんな刀工は当時は知らないし全く相手にもしないはず、なのに残された。という事は、日本側審査員の腹の中は所謂洋鉄軍刀は×にして、それ以外は全て残すという考え方しかない。その裏の狙の基準が既に昭和二十一年十月の文書末尾にあったという事になる。
(敬称略)
(文責・中原信夫 令和元年九月十一日)

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