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INTELLIGENCE

♮ 続・赤羽刀の審査基準

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

赤羽に集められた刀が約三十万本として、約五千本が残された。すると差引、二十九万五千本はどこへいったのか?!これについては何の記述も記録もないのであるが、物質欠乏の時期に、膨大な本数はどう処理したのか。処理しないといけないものである。何か確実な資料がどこかに残っていないか・・・。

私が福永先生から聞いた話では、破棄する刀を、当時、焼け残っていた軍需工場でシャーリング断截にかけたそうである。シャーリングとは鉄板を断截する機械で、今でも鉄工所で使用されているはず。私も大学生の四年間、近所の鉄工所でアルバイトをしてペンキ塗等の鉄工所の手伝をしたが、その時にシャーリングは経験した。しかし、鉄板は鍛えていないので、すぐシャーリングで断截できるが、刀は鍛えてあるのもあり、極めて粘い。この刀の断截を引請けた工場から直ぐにクレームが来て、一振あたりの断截料金を値上してくれないと、すぐに何本かシャーリングすると機械が壊れてしまい、仕事にならないとの由。これで、一部は断截してスクラップにしたという事はわかるが、それはごくごく一部。あとは海洋投棄でもしたと考えるしかないが、一切不明である。こちらの処理の方が、輸送手段といい、人件費といい大変である。

 

その残された約五千振の一部のものを、大分県立歴史博物館に譲与された百十振を私は全て拝見させていただいた。十振が無銘で、あとは在銘。その中に日佐正員があった。しかし、その百本の中には考えられない程の歪・曲・刃コボレがあるのがあり、これが一般人の立入が絶対不可能な上野の国立博物館地下倉庫に保管していたのかというような、考えられない悲惨な状態のものがかなりあった。もちろん、国博に運び込まれる前に、赤羽で米兵によって無茶苦茶にされているケースもあったとは思うが・・・。

さらに、グラインダーで加工したと思われるものや、荒砥がかけられたもの、そして、それらの加工が戦後何十年か前のものとしか考えられない状態のもあった。

 

これも仄聞した話ではあるが、戦後直ぐに日刀保(当時は上野の国博内にあった)で開催された研磨の講習会で、適当な教材を携える事ができなかった研職希望の人達に、某先生が「これを使え」といって何処からか錆身を持って来たという話もあり、その話を私にした人は「あれは地下倉庫にあった赤羽刀・・・」ということを聞いたそうである。

この話が本当であろうと、なかろうと、私が実見した赤羽刀譲与百振に、それに符合する痕跡は十分にあったし、むしろ、それを裏付けるようなものであった。

 

いづれにしても、何らかの形で約五千本が生き残ったのは本当に幸であった。

ちなみに、文化庁保管としている60本(私の記憶での本数)は展示で見たが名刀ばかり。国も仲々抜け目ないやり方をするものであると、つくづく感じたのは私だけであろうか。その撰別目的のために当時の日刀保学芸員を雇ったといわれてもしょうがない。今少し方法があったはずである。元は多くの善意の国民の泣くに泣けない悔しい思いのある供出であるから・・・。

ただ、これからの状況を考えての推測ではあるが、三十万振の殆んどが、軍刀か、もしくは疵があるどうしようもない刀であった可能性もある。勿論、五千振の中に重美も含まれているから、全てではないにしても・・・。

以前、本欄でも述べたが、十年程前の(財)日刀保(渋谷区代々木)の保管室から発見されたという赤羽刀であるが、日刀保が赤羽刀を譲与されたとは聞いていない(もし、私の記憶が間違っていたら指摘していただきたい)。つまり、どういう方法でそれらが赤羽刀と確認したのか。白ペンキで四桁番号が中心に記入されていたのなら、すぐに赤羽刀と確認は出来るが・・・。
(敬称略)
(文責・中原信夫 令和元年九月十一日)

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