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+ 縁頭(ふちがしら)について

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀装具の一つでもある縁頭は、私達にとって何の抵抗もなく“縁頭”としていとも簡単に受け入れていますが、果たして“縁”と“頭”が昔から一対としてあったのか、という事を考えてみたいと思います。

 

私の長年の楽しみの一つに“離縁(はなれぶち)”の蒐集というものがあり、目についた離縁で私の少ない小遣で買えるものは、出来る限り買うようにしています。もちろん高価な幕末の金工の作には手を出せる筈もなく、もっぱら俗にいう“時代縁(じだいぶち)”と言われる古い時代のものが私の好みでもあり、かれこれ三十数年以上にわたるささやかな趣味となりましたが、近頃、全く入手困難な状態にあります。その最大の原因にインターネットによる売買があり、極めて品薄となっているようです。ただし、本当の時代縁なんてものは果たして本当にあるのやら・・・それさえも定かではないのですから、刀装具の社会とは刀の社会以上に今だに全く未解明な闇の状態です。

 

さて、この離縁という俗称そのものから考えても、従来から縁と頭は一対(同一材料と同一図柄)であるべきという前提からきた考え方でしょう。しかし、果たしてそうなのだろうかと思い始めて、もうかなりの年数が経ってしまいました。つまり、縁頭という一対のものから、縁だけが離れた(離された)という感覚で、離縁という俗称が堂々と通用しているのでしょうし、一般に何の疑問も今迄もたれなかったと言って良いと思います。

因みに、“縁”という金具の持っている使命というか役目は、拵全体からみて一番の基本であり、縁なくしては拵は製作出来ない事を、今の人達は余り知らされてはいません。拵を作る際には、鐔・目貫・縁頭・栗型・返角(折金)・小柄・笄・鐺などが必要ですが、それらの金具の中でも、何といっても縁は最重要な金具で、柄の形(柄形・つかなり)が決まる基準点なのです。

しかし、縁にくらべて頭はというと、余り話題にされない傾向にあり、図柄の統一性という点から、縁と頭は揃っているべきであるというぐらいの、漠然とした潜在的考え方だけで捉えています。

 

しかし、私は縁と頭で一対という概念が普遍化したのは江戸中期以降と考えていて、それ迄は一対という強い概念はなかったように思われるのです。現に縁頭として多くの作がみられるのは江戸中期頃からで、江戸後期になると一対が当り前の如くなっています。したがって、江戸中期頃以降の作品が、現在のように縁のみが売買されるケースになると、「何だ、離縁か。頭はどうしたのだ。縁だけでは安いよ!」などとされてしまう事になるのです。確かに、“離頭”よりも“離縁”を見る機会も量も多いような気がしてなりません。この原因は果してバラバラ事件(縁と頭を別々にしてしまう)によるものなのでしょうか。私は、頭は元来 “角(つの)製”であった時代が長く続いたので、縁のみが多く製作されたと考えるのが合理的であると思います。

つまり、縁頭は一対であるという現代の常識は、昔では当てはまらないという事です。現在の考え方から過去を推測するのは間違であって、過去に作られた現存品から客観的にみて当時の状況を素直に推測すべきでしょう。

 

因みに、細川三斉に始まる肥後拵(歌仙・信長拵)にしても、拵に使用された金具に統一性はなく、むしろ統一性のないのが古い拵とされていますが、三斉の経済力からして、縁頭を一対として作らせる事など、全く簡単な事であった筈です。なのにそうはしていません。何故でしょうか。つまり、縁頭は必ず一対でなければならないという概念そのものが、当時は全くなかったと考える以外にはないのです。

歌仙拵や信長拵にしても、金具の不統一性(取り合わせ)をもって細川三斉の美意識が卓越したものであるという解説をまことしやかに喧伝するのが従来からの考え方です。しかし、金具の不統一を褒める前に、もっと考えるべき点は、当時は縁頭の統一(一対)という概念はなかったし、むしろ、その必要性もなく必要としなかったと考えれば、何ら支障なく歌仙拵、信長拵をみる事が出来ます。現代の考え方(縁頭は一対)では、単なる不統一性を褒めるしかありません。しかもその不統一性の根元を茶道における“ワビ”や“サビ”の精神などと解釈されては、甚だしい曲解という事になります。単なる“取り合わせの妙”のみで拵を製作したのではなく、あくまでも実用性のみを重視したという観点から出発した拵であり、それに加えて最少限の装飾(取り合わせの妙)というのが妥当な評価でしょう。

 

戦国期の拵としては“天正拵”という俗称で通っている拵が有名ですが、これらの拵は緑が金属製であって、頭は角(つの)製です。ただし、天正拵という決まった形式がある訳でもなく、ただ近世になって誰言うとなく漠然とした俗称が天正拵である事は、決して忘れてはなりません。強いて言うなら、こうした拵は戦場で使われた下手(げて)であり、上手(じょうて)、つまり特別入念作とは違うと考えられます。では何故に頭を角製にしたのでしょうか。角製ならおそらく安価に量産出来たからでしょうが、柄革を頭に掛巻(かけまき)にしてあるので、掛巻部分が破損しても柄革が緩まないような特殊な巻方(巻留・まきどめ)が施されていたようです。逆に歌仙拵・信長拵は頭は金属製であって柄革は掛巻にはしていません。これなら基本的に、使用中不意に切れたり破損する事は少ない筈です。従って歌仙拵・信長拵は角頭掛巻という実用本位の戦国期用式から脱した新しい感覚であるという見方も成り立ちます。また、新しい感覚であったのかも知れませんが、剣術からの実用が主であって、この両拵の緑頭にも統一性はありません。

ただし、江戸中期以降における殿中指(でんちゅうざし/大名の正式指料)は、大小共に角頭の掛巻です。これは指料の絶対不使用を大前提としたものであるにしても、大名の表道具ですから、絶対に譲れない考え方(緑頭は一対)なら、その様な拵は殿中指なら余計に受け入れられなかった筈です。これを考えても、昔から縁頭は一対であるという捉え方は、絶対に考え直すべきものだと思っています。

 

最後になりましたが、長年にわたり刀装具を見てきて、かなり以前から気付いていた事があります。それは、昔の人、特に武士階級の大多数を占める低禄の人達が拵を作る時、金具が高価であったためにあまり見栄(みばえ)を気にしなかったのではないか、むしろ節約という意味も大いにあったと思える点です。特に下級武士階級はそうした傾向が強いようです。というのは、縁頭として一対で伝わって来たものをよく観察すると、頭はどうも頭ではなく、鐺(こじり)や栗形(くりかた)の転用ではないかと思える金具を、頭としてやや強引に使用しているケースに度々出会っています。どうもこうしたケースをも含めて、私は、縁頭は昔からずっと一対としてのみ作られてきたものではないと考えていたのです。したがって、古美濃の縁頭などというのがよくありますが、怪しいと思った方が良いでしょう。目貫にしても同様のケースをみているので、昔は金地が高価で使えなかったのではないかと思っている訳です。それに較べて、現代は幸です。離縁など何千円ぐらいから市場で売買されるのですから。こういう風に書けば皮肉っぼくなるのですが・・・。
(文責 中原信夫)

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