INTELLIGENCE
+ 小柄と笄について〜その2
Copywritting by Nobuo Nakahara
前回は小柄について話をしましたので、次に笄について述べていこうと思います。
笄の語源と使用目的には様々な説がありますので、それには今回は触れず、別の話をしていきます。
まず笄の装着場所は拵の表側で鯉口と栗形の間に入れます。したがって、笄を抜く時は左手の親指で笄の木瓜(もっこう)形の上あたりを軽く押さえて押し出すことになりますが、栗形があって小柄のように直線的な動きでは押し出せません。しかも、鐔の笄櫃から出てくるのは笄の先端でほんの少しですから、右手の指(親指と人差し指)で摘まなければなりません。柄の裏側から引き出す小柄と違い、柄の上(刃方)越しに摘むものですから、笄の先端は小さい形状でなければいけません。そうしたことが考えられて、笄の先端は耳掻状の独特の形をしていると考えられます。しかも耳掻部の先端の貝の内は構造が少し立ち上がり気味になって、右手の親指と人差し指の腹がスッと貝の内に入って簡単に前方へ抜き出し易い形状ですし、耳掻部の頸部は摘み易く細くなっていますので、見事に使い易い(抜き出し易い)構造・造形です。
このような使い方と考えられますので、笄の表にある七子地も木瓜形の上部(鞘の栗型の少し上にくる所)が、一番多くそして強く手擦が出来ると考えられ、また、先端に近い眉形の下部(七子地がある)そして蕨手のある部分に多くの手擦が出来、耳掻部も同様と考えられます。したがって、笄では以上の箇所で経年変化が七子地と下地(本体)の摩滅という所作で一番多く出現してくることになります。当然、笄も小柄と同様に表側には模様や紋がありますので、その模様や紋の一番高い部所には手擦が多く現れることも小柄と同様です。
つまり、こうした長い経年による自然な摩滅や痛みが多いほど、概ねその本体は古いという事に直結します。これが大事であると思います。
笄の作り方としては、古い時代は全体を鋳込んでいますが、おそらく桃山時代から江戸最初期あたりから、小柄と同様に地板というものを嵌め込んでいる方法に変っていったと考えられます。また、本体を全部(模様や紋をも含めて)鋳込んでしまった後に、少し手を加えたものがありますし、本体は鋳込むが模様や紋は別に作って、リベット状の棒で固定する(据紋)方法もみられます。さらに、地板の嵌め込みをするという方法も江戸期にはよくみられます。
さて、この全体(模様や紋も)を鋳込んだもの、つまり鋳造物は当然、数量的にも多く、また同図柄が多く残されますから、そうした点も見所の一つでしょう。
それと耳掻について述べておきますと、耳穴の清掃のためとの説が多いようですが、これは絶対にやらないと考えられます。耳垢のような不浄なものを清掃するのに、表道具は使いません。武士は懐中にそのような道具を携行していたはずです。よく下緒をタスキに使うとされている誤説と全く同様です。
さらに強く述べておきたいのは、古い笄に「逆耳(さかみみ)」と称して、耳掻の部位が通常と反対に向いている作例があるとされています。私は以前、某氏が「この逆耳は極めて古い時代にある」とされた実例を拝見したことがありますが、本体そのものが古くなく、経年変化の所作もほとんど認めにくいものでした。したがって耳掻部が反対の向きになっているのは原因はわかりませんが、折れたのを継いだ時に逆に付けた可能性もあるかと思います。というのは、古い笄は真横から見ると、竿部が鞘の櫃内に入るため胴部と竿部が少し大きく逆“く”の字状に浅く曲がってくるのです。これは耳掻部が縁や柄糸に極力ひっかからないように、笄櫃を作ってあるというか、なっているからで、逆耳になれば耳掻が柄に接触してそれと逆の現象が起こってしまいます。これでは縁や柄糸を痛めてしまいます。大体において逆耳になると、親指や人差し指の機能が十分に発揮できませんし、構造上は不合理です。
以上、私の考えている点を述べました。
(文責 中原信夫)