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+ 小柄の構造について〜その3

Copywritting by Nobuo Nakahara

前々・前稿では古い小柄とされている裏打出方式の構造に二通り(片手巻と裏板張・〈貼〉)の構造があるとの私見(推測も含め)述べましたが、その片手巻が本当に古いのかという点について、少し述べてみたいと思います。因みに、製作年代の究極的な決定は使用金属の非破壊検査によるしかありませんが・・・。

 

さて、従来から片手巻として紹介されたり、経眼した作例、そして拙蔵品(といっても多くある訳もありませんが)を概観してみると、この片手巻には赤銅色のものと、そうではない色(山銅・粗製銅)の二通りがあります。これは従来から言われている事でもあり、色については赤銅の色が真っ黒(烏の濡羽色に擬される)な色でないと、後藤家・殊に本家ではないとされていて、覆しにくい理屈でもあり、見所でもあるのですが・・・。

この二通りの内、赤銅色ではない山銅の方ですが、この作品にどうも後世(時代が下る)の数物(古く見える)ではないかと思える作例が紛れこんでいるのではないかと思えてしようがありません。しかし、時代が下った時期に、わざわざ片手巻を採用して数物を作るのか?という考えも大いに残る訳であり、どうしても判断がつきかねるのです。

さらに言うなら、赤銅色ではない二つの例の内の一つ、数物と思える作例(冤罪かもしれない)を見ていると、語弊があるかもしれませんが、図柄模様が高尚なものではなく通俗的臭い、何となく今一歩な感じのある図柄のデザインで、殊に彫(裏打出)が総体的に低く何となく平面的な打出で、何の色絵・象嵌も施されていないのが殆んどです。しかし、これとは違って、もう一つのうちには裏打出による彫り方が高肉彫となって、『目利書』等にある「山高く、谷深い」彫状態となっている作例があります。しかも、この手(作例)には概ね七子が、図柄の周囲の際に至るまでやや細かく整然と蒔かれていますが、前者の例では、七子がやや荒く蒔かれている場合が殆どで、図柄の周囲の際あたりでは適当にといってよいほどの七子の蒔き方です。

 

この山銅の小柄の二通りを如何に解釈するべきか。当然、古い時代にも身分と収入による差は厳然としてあったはずであり、私が時代の下る小柄ではないかという感覚(冤罪の可能性あり)を訂正し、古い時代の作ですが、品質の上下(ランク別)であると見るべきなのでしょうか。そうすれば、片手巻は古い時代に限られ、従来の説の通りとなります。

次に赤銅の片手巻の小柄の場合は、それほどの多くの経眼がなく、少ない経眼作例の中から概観すると、確かに図柄のデザインは秀れていて、七子の蒔き方も図柄の周囲の際のあたりの狭くなった所まで丁寧で整然としています。また、裏打出の高さ(高肉彫)も「山高く、谷低い」という通りです。さらに、こうした作例には金象嵌色絵などの装飾が必ず施されているといっても良いでしょう。ただし、この作例の赤銅色にも差が少しあり、当然、古い時代といっても、その期間は短くはないでしょうから、工人や地域、そして流派(という程の区別は果してあるのか?)の違いで、少しづつ、または大きく相違するでしょう。

 

加えて言うなら、最初から後藤祐乗ありきで考えると、大きな間違を引き起こす事になりかねません。この点については本欄で既述してあるので参照願いたいのですが、「赤銅の色の悪しきは家(後藤本家)にはない」という『後藤家彫亀鑑』の記述ですが、これは最初から祐乗ありきという観点から見ての記述であり、江戸後期から室町期を見ての話です。この見方はまさに逆行したものですが、要は後藤祐乗は金を多く使用出来る立場にいた、だから赤銅の色が黒くて良いという事を喧伝したにすぎないので、祐乗が実在したか否かは不明。確かに祐乗に擬せられる人物(工人)は居たでしょう。しかし、後藤家の由緒書は無視はしませんが、上三代の記述に関しては鵜呑みには出来ないし、また、してはならないのです。
(文責 中原信夫)

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