INTELLIGENCE
+ 小柄の構造について〜その4
Copywritting by Nobuo Nakahara
今回は片手巻ではなく、二枚張(裏板貼〈張〉)の構造の小柄について、私見を述べてみたいと思います。
実は本稿(その1)でも述べた様に、つい最近まで、裏打出方式は全て片手巻と思い込んでいたのですが、同じ裏打出方式でも裏板を貼り合わせてある構造があるのに恥ずかしい事ですが、やっと気付き、拙蔵品と経眼作例を仔細に精査しましたら、裏打出方式でこの構造(裏板貼)の方が片手巻よりもやや多く存在していました。したがって、裏打出に該当する作例は最初から片手巻とのみ捉えていましたので、ここに至って製作年代特定には非常にむつかしい難題となってきました。
さて、この二枚張構造で一番問題となるのは裏板の厚さで、既述の様に構造としてはD-1・2・3が考えられ、一応、D-3が一番古い時代で、D-1がその次に古く、D-2がその次と考えましたが、その理由・理屈は材料代の節約と推測しました。それから、この構造では二箇所の継目を接合(鑞付)するのですが、片手巻は一箇所の継目ですから、二枚張の方が鑞が多く必要となりますので、そうした点から鑞がかなり普及してきた頃の構造となり、したがって、片手巻よりも時代が下る時期と考えました。そうしますと、片手巻で紋が据紋(鑞付)の方法なら、鑞を多く使用する事になるかもしれず、二枚張よりも時代が下ることになるような気がしますし、自己撞着となり混乱してしまいますが、この点については今少し考えてみたいと思っております。
さて、本題の二枚張の構造の小柄は意外に現存しています。おそらく、経眼しただけの作例をも含めて、多くあったと考えられ、製作年代は片手巻の最下限が桃山時代初期とすると、二枚張の出現は桃山から江戸最初期頃となり、その後(江戸初期頃か)に二枚張地板嵌込構造に移行したと考えてみました。当然、移行期間でダブる期間もあったと考えられますし、地方の工人なら今少し移行が遅くなりがちかもしれません。ただ、以上は全て推測で確証も自信もありません。
ここで大きな?が出てきます。つまり、片手巻が意外に少ないのは何故でしょうか。私は天正十六年に出された豊臣秀吉の「刀狩令」に原因があると考えています。当時の報告書が極めて少ないのですが、残っている報告書の内容を見ますと、笄・小柄(報告書には小刀とあるが、これは小柄と穂先のことと思われる)が多く没収されていますので、これらは鋳潰してリサイクルされたと考えられます。つまり、現存の片手巻は少なくとも刀狩を逃れた品物であったと思われますし、それら没収された小柄・笄も下級武士(農民化した)が所持していた拵に付けていたものが殆どと思われますので、下手(げて・下級品・数物も)の作例が殆んどでしたでしょう。中には赤銅色が黒々としたものもあったでしょうが、鋳潰される時に撰別したと考えるのが順当です。圧倒的に下手が多いのですから、上ランクの赤銅作例が少ないという今日の現存数の結果につながったのではないかと推測しています。
以上、推測を基にした私見を述べてみましたが、一番大事な事は、従来から定説とされてきたものを、今一度ゼロベースにして検証し直すことが必要なのです。これは、従来の定説を否定することのみを目的にした検証ではなく、逆に、立証する方向をも含めた検証です。過去の著名な人が述べた説だからといって、鵜呑みにはしない・・・当然ですが、私の述べた推測も、十分に検証していただく事を願っていますし、私自身もそうしていきたいと思っています。それと、併せて科学的検査法の完成と導入が一日も早からん事を願うのみです。
それにしても小道具は全くわからない事だらけです。それだけは現在の定説?としておいても差支はないでしょう。
(文責 中原信夫)