中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

+ 鐔の銘字について

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀の銘字については、今までに多くの人達が各々の誌上や書籍に書いておられるのですが、これにしても決定的な○×がわかるケースはともかく、グレーゾーンのような所には、必ず見解の相違として片付けられたり、又は、誰々先生が良いといったとか、指定品であるから良いといった類の結論になってきました。

さて、では鐔の銘字についての同種の記述とかは案外ないといってよく、今回、知人から拝借した本にある鐔写真を今回は論じてみたいと思います。お断りしておきますが、今から俎上にあげる鐔は実見してはいませんので、あくまでも写真でという点を御了承願います。但し、昔拝見しているかもしれませんが、全く、記憶に残っていないので未見の鐔とせざるを得ないのではありますが・・・。

 

この鐔(1)図は、『刀装具の起源』笹野大行著(昭和54年刊)82頁から引用したものですが、まず、笹野氏の説明を引用してみると…“真鍮地 銘表「右京大夫」裏「永享十三年」。永享十三年の頃、管領の細川持之は右京大夫と呼ばれていたが、これは所持銘であろうか。銘ぶりに確信性があり、打ち込んだ紋様の姿態は、古雅で時代が上がるといえる”としています。

更に“銘は、書体も堂々として伸び伸びと切り、鏨運びが一貫して渋滞がなく、そして表裏とも同じ手癖のものであり、銘ぶりは疑いを挟む余地がないといえる。”また“この特徴的な櫃穴の形状と時代ののりにくい固い感じのする真鍮地のために、やや時代が若く感じられることは否めないといえる。とにかく、時代の判断の難しい鐔ではあるが、永享十三年の年紀は肯定してよいと考える。”と続けています。

つまり、笹野氏は鐔の作風、模様造込等からは少し柔らかい感じを持たせるべく、柔軟な態度の説明と見解であり、本書発刊の頃には、少々変わった見方としても評価された筈です。

 

さて、本欄ではこの鐔の作風、造込、紋の形式を論じていこうという気はありません。この鐔に関しては、昭和13年に永田輿吉氏が既に、色々と論じておられるのでとも笹野氏は書いているので、別に蒸し返すつもりは全くありません。

では今回は、「永享十三年」という年紀についていうと、永享13年は2月17日に嘉吉元年に改元されています。つまり、永享13年は1ヶ月半しかないという点も考えてほしいのです。そして、大問題は永享の「永」という銘字です。写真を見てください。

現代の我々が「永」という字を書けば、まさに「永」という字になるし、それしか習っていないし、また、よほど書道をやっている人や古文書をやっている人以外には他に字体があるとは気づきません。

 

では、(2)図を見てください。(A)の字体が古い時代のものであり、(B)が私達もよく使うあたりまえの字体です。この(A)の字体が古い時代から使われ、それがやがて(B)の字体に順次入れ替わっていくのですが、その入れ替わりの時期は室町末期、私見ながら永正頃からと思われます。つまり、永正備前では(B)の字体が多く、おおむねこの頃としか考える以外にはありませんが、全ての永正備前ではありません。従来からの(A)の字体を使った作例もあります。江戸最初期(特に肥前刀)にもわずかですが(A)はみられるのですが、極めて少ないのです。

しかし、(1)図は永享年紀であり、(B)の字体は絶対に使用してはいないのです。こうした単純な見方は、刀の銘をよく見ている刀好きや刀の研究者にはほぼ常識に近いものです。従って、恐らく笹野氏はこうした点を全く考えておられないというか、そんなことは知らなかったと言われても仕方ありません。

 

昔から、刀と小道具は両輪であり、一緒にやらないといけないと、私は先輩からいわれていましたが、このような点をいった格言に近いといわざるを得ません。となると、1ヶ月半ぐらいしかない永享十三年紀に「月」を刻らなかったのも、ある程度の悪知恵のある人物の仕業でしょう。

これと同じ字体については「永仁の壷」事件もありますが、いずれ触れることになるかと思います。最後に40年も前の本から引用した事例なので、著者はすでに故人であり、欠席裁判かもしれませんが、鐔小道具社会での影響もあり、また、今後の愛好者のために、あえて書いたことはご理解いただきたいと思います。
(文責・中原信夫)

ページトップ