中原フォーラム HOME
INTELLIGENCE

+ 「永」の銘字について〜その1

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前回、「永仁の壷」事件という事に触れましたが、専門外で全く素人の私ですが、前回の永享年紀の鐔を契機にした銘字についてのことですから一応書いておきます。

昭和34年6月に重要文化財に指定された瓶子(以下、俗に壷とされているので壷とする)があります。 この壷は昭和23年に重要美術に申請されましたが、認定されませんでした。この壷には、「永仁二年紀」が刻まれていますが、他に、もうひとつの壷があり全く同じ銘字ではなく、各々銘字が違っています。つまり、ひとつには「永仁二甲午年十一月日」とあり、これを①とします。もうひとつには「永仁二甲午十一月日」とあり、これを②とします。2個とも、重美には認定されませんでした。これは伝来と銘文に?有りとされたからです。

①は重美申請された後に行方不明となり、②が昭和34年6月に突然、重要文化財指定となってから疑義が大々的に持ち上がり、結局、昭和35年4月に重文指定を解除されたのが、俗にいう“永仁の壷事件”です。

 

重美は、昭和24年以降の指定はないので一応除外して、重文国宝の指定解除は、そう簡単にはいきません。つまり、官報に掲載された有り難いものですが、それでも完全に偽作と判明したケースとか、原形を著しく毀損したケースは解除されるという規定があります。これにより解除されたケースはありますが、一般的にはかなり難しいことです。しかし、永仁の壷の件では、重文指定後に偽作者が名乗り出た事もあり、指定解除になったのです。では、このように大騒ぎまでしなくともこれらの①・②は偽作という事が判らなかったのかという点を述べておきます。

 

前回の「永」という銘字の字体を再見してください。①・②の壷には、“永仁二年紀”が彫ってあります。永仁とは鎌倉時代で、西暦では1294年です。ならば、「永」の銘字には前回の(A)の銘字ではなければいけません。これは我々の社会では常識にも近いものであって、恐らく古文書関係の世界でも同様でしょう。

しかしです、この①・②の「永」の銘字には(B)の「永」になっています。これは①・②の写真を見て確認しています。つまり①・②共に偽銘で偽作となるのです。また、この①は、現在行方不明との事ですが、②は存在と所在が確認されています。数年前、静岡県三島市の佐野美術館で、この②を展示で見たのをよく覚えています。しかも「永」は(B)の銘字であったことも、はっきりと覚えています。

したがって、この重文指定解除に至る大騒動も「永」の銘字ですぐに偽銘の年紀と判明します。偽作者が名乗り出なくとも、すぐに確認できたのです。

 

但し、どうして我々の刀の世界では、簡単に言い切れるのかというと、刀の銘字に較べれば、何ら異質の考え方ではなく、普段から見慣れているものであるからなのです。それだけ我々の刀の世界は、最高且つ最先端のレベルにあるという事になり、同好の人には誇りを持って欲しいと思います。
(文責・中原信夫)

ページトップ