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+ 「永」の銘字について〜その2

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前回に引続き、永仁の壷について余談になりますが…

この永仁の壷を重文に指定する前後に、私の師・村上孝介先生は、この壷を見ていたとよく話されました。この壷の重文指定を強力に後押ししたのは小山富士夫という文部技官でしたが、村上先生は面識がありました。というのは昭和43年頃まで現在の(公財)日本美術刀剣保存協会は、上野の国立博物館の地下に事務所があり、理事であり常任審査員であった村上先生はよく日刀保へ行かれていました。ここからは、村上先生が私によく話されていたものです。

村上先生いわく、「実は小山氏が、本間順治・佐藤貫一氏などがいる所に、つまり日刀保へその件でよく来て、永仁の年紀について意見を求めていたんだ・・・。」と言う。そこで私が村上先生に「先生はどう見たんですか?」と聞いたら、「年紀の干支「甲午」について本間・佐藤氏も僕も?を呈しておいたよ。」と言われたのです。

これと全く同じ疑点を重文審査の文化財真偽委員会で述べた人がいるとされています。それは、大場磐雄(考古学)・香取秀真(金工)・田沢金吾(工芸・考古学)という人達であって、つまり干支“甲午”を斜目に書いた(刻した)ものは鎌倉時代の様な古い時代にはないとの指摘であったとのことですが、小山富士夫氏は、刀・釣鐘・墓石に例があると説明したのです。

 

しかし、ここに至っても「永」の銘字については、全ての審査委員会では話題にのぼらなかったと思われます。私が前々回に書いた「永」の銘字の時代的区分は絶対です。村上先生は陶器も大好きであって、多くの作品を所有されていたし、重美の小道具・文献(和漢朗詠集本)なども収集されていたので、多方面の文化財専門家との交際、交流もありました。こうした事を踏まえて考えると、村上先生は「小山氏は、どうしてもあれ(永仁の壷)を信じていたいのだなぁ…」といっておられたし、「個人的にも偽銘であると小山氏に忠告したが、どうしても聞き入れてくれなかった…」と述懐されていました。私は村上先生が「永」の銘字についても触れられたと聞かされていますが、本間・佐藤氏について、どのように小山氏にいわれたのかは知りませんし、村上先生からも聞いてはいません。あまり触れたくなかったのかも知れないのです。つまり、刀・小道具の国指定については、本間順治氏は昭和8年より重美指定、昭和25年からは重文国宝指定の役職にあって同業であったからかも知れませんが・・・。

 

ちなみに、前回書かなかった点があるので、念のために書いておきますが「永」の銘字、つまり壷の胴部に刻まれた年紀に固執して、他の事 釉薬・造り込みについて触れないのか、それは私の専門外であるからですが、壷が焼成される前にしか、この年紀は刻せません。焼成前だから「永」の銘字が現代字になっていた・・・それは現代人の感覚で銘字が刻されたからで、偽銘。本体も現代作という何よりの証拠となります。

 

仮に「永」を(A)の字体で偽銘刻者が刻していれば、果たして、どのような結果になったでしょうか。当時も最新の科学検査は行ってはいますが・・・。どんな証拠より、この「永」の字体なのです。ちなみに、村上先生の最晩年頃(昭和52年頃)名古屋近郊の尾張旭市で研究会があり、その時、美術品商から聞いた、あくまでも伝聞ですが「あの永仁の壷の材料は鎌倉時代に採取していた土と全く同じ土が、ある時(大雨による崖崩れ)出てきた。それを使って焼いた・・・。」ということを語っていましたが、私にはその真偽の程はわかりません
(文責・中原信夫)

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