INTELLIGENCE
+ “鑑(み)る” とは・・・
Copywritting by Nobuo Nakahara
本サイトでは、主に小道具(装剣具)について私見を述べているのですが、ここで改めて、“鑑(み)る”とは何かを書いて、私の思考方向・方法を認識しておいて欲しいと思います。
以下の文章は、『新説 刀 鐔考』(鶴飼富祐著・平成十九年刊)273頁~274頁からの引用です。
一枚の明寿
埋忠明寿の鐔は、確か重文指定が二枚あったと思うが、この二枚の作風は全く違う。その他、重要美術品指定が五、六枚、重要・特重に至っては、十枚を数える。これは私の提唱する、一銘一枚に明らかに反するもので、尤も誰が考えても、私の仮説が間違っていて、国又は団体の指定が正しいと、これは論を持たない。然し私は少しも驚かない。先年故・宮崎富次郎氏夫人の御好意により、柏樹図鐔を見せて頂いた。その時、ほんのチョッと触らせて貰った。それで十分である。凡そ物を鑑るとは、時間を掛けて、いじくり廻す事ではない。見る前に十分考えてから見れば、寸秒で用は足りる。ましてチョッと触れば、もう十二分である。若しそれで判らなければ、大金出して私有としても、遂に判る事はない、と私は思う。物は鑑るだけでは、本当の事は判らない。考える事が大切である。かくある可しと考えて、その通りであれば、それで十分判ったと云う事である。柏樹の明寿は、チョット触ったら、象嵌が微妙に下がった。その凡そ百分の一粍程、あんな見事な赤銅象嵌は見た事も触った事もない。明寿こそは真の名人とその時思った。やはり「一様式一枚・一銘一枚」は生きている、と心から嬉しかった。そして陣屋の亡き宮崎氏に、心から手を合わせたのであった。
この文章には、物に対する“鑑る”という考え方、実践方法が全て述べられています。「凡そ物を鑑るとは、時間を掛けて、いじくり廻す事ではない。」と述べられていて、更に「見る前に十分考えてから見れば、寸秒で用は足りる。ましてチョッと触れば、もう十二分である。」と鶴飼氏は述べておられます。まさに、その通りで、一番大事なのは、“見る前に十分考えてから見る”と述べておられるのが第一のエッセンスです。従来の小道具社会で、先生とか、権威者といわれて、本を出した方々にも、はっきり言ってこの思考が乏しいというか、まるで無い方もおられます。そんな傾向の強い方は、必ず古雅とか雰囲気とかの抽象的修飾詞で紙面を飾るしかありません。最後には、誰々がこう言った、ほめた、認めた等々を言訳としています。
鶴飼氏の文章を更に続けると、「物は鑑るだけでは、本当の事は判らない。考える事が大切である。かくある可しと考えて、その通りであれば、それで十分判ったと云う事である。」とあります。例えば、鐔を見たとき、肩書などを全く考えないで鑑る。ただ単に鑑るのはただ見ただけに過ぎず、考える事が大前提であり、それを基本にして、物を鑑るのです。
かつて、鶴飼さんが通っていた鐔の同好会がありましたが、ある時、氏が参考出品されていた鐔についての見解が、参会者の一人と正反対の見解になったといいます。恐らく、製作年代等についての対立であったと聞いています。氏に反対・反撥した某氏曰く、「鶴飼さん、俺は小学校の頃から ずうっと鉄鐔をみているんだよ!!、だから俺の方が当たっているんだ・・・」と のたまった由。 これに対して、氏は「能力のない人が、いくら長いあいだ鉄鐔をみても・・・」と反論した由。これで幕引と相なった事は言うまでもありません。
この件に関しての正解は、氏の文章に既に解答はでています。某氏は昔からの見解を鵜呑(“見ているだけ”)にしているだけで、何ら自分で考えようとしていなかった点を、氏から“能力のない”という判定をされたのです。つまり、最初から考えもしないで物が判定出来る人間はいません。大事なのは、“考え”てから物を“鑑る”という最低限の要素・大前提です。それを全く考えないし、考えようともしない某氏に、“能力がない”と喝破されたのが氏です。
ただ、ここでちょっと氏の文章に付け加えさせて頂くと、刀も小道具も初見の品物があります。これは一度拝見して、又、二度目以降に結論を出すしかないのです。初見の時に、同作又はそれに類する作から導き出した考えを基本にして、二回目の拝見の時に結論を出します。
氏が埋忠明寿の柏樹の図の鐔は、以前にガラス越しか又は写真でみられていて、氏の考え方をまとめ上げた上での「チョッと触ったら、象嵌が微妙に下がった。その凡そ百分の一粍程、あんな見事な赤銅象嵌は見た事も触った事もない」と述べられているのですが、その通りであって、他の指定品も恐らく、氏は触っておられたと考えるべきであり、“象嵌が微妙に下がった”という点からみて、他の触った鐔に“下がった”という事はなかったのではないでしょうか。
私はこの話を氏からよく聞いていましたし、それで納得した事もありました。つまり、“百分の一粍”という表現です。これが数値ではなく、“微妙に下がった”という点が極めて貴重です。余談ですが、私は氏に「よく触れましたね~・・・」と言ったら、氏は、「監視人が席を少し外した瞬間にね・・・。前から触ろうと思っていましたから。」と茶目化たっぷりの表情で話されました。
明寿は白銀職であり、鎺などを作っていたし、象嵌も極めて上手であったとされます。したがって、この技術が赤銅象嵌に十二分に活用していたのであって、単なる赤銅象嵌とは訳が違うのです。使う金属の特性を知り尽くした上での赤銅象嵌であって、明寿でなければ出来ない高技倆でしょう。ここまで考えた上での“見る前に十分考える”という表現がこの文章にあらわれた筈です。
昨今、平象嵌であれば、何でもかんでも埋忠と極めますが、これ程“芸”のない極もないでしょう。又、刀にしても無銘の中心で孔が複数あけてあれば、何でもかんでも大磨上として極めてしまいます。その前に“考え”れば、そんな愚かな鑑定は絶対に出来ない筈。
氏が同書にも書いておられますが、“木の葉が沈んで、石が流れる”という事態となって久しい・・・本欄をみて頂き、自分の“考え”を構築し、物を“鑑る”という態度を貫いて頂きたいと存じます。
(文責:中原信夫)