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+ 三匹牛の図の目貫

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

このシリーズでは牛の図柄をかなり紹介させて頂いたので、読者の皆様は、またかと思われるかも知れませんが、本当に本稿で牛の図柄は終りとします。

さて、『後藤黒乗傳書』(寛永二年)では、「牛一疋となりたる目貫笄有、但、二疋連も三疋連もあり」としていますから、江戸最初期の寛永頃以前にも三疋の牛の図柄があったことになります。

その前に『後藤黒乗傳書』(寛永二年)では、「午(牛)の目貫 下の上」との位付をしていて、『後藤隆乗 勅答書』(享保八年)でも同じです。

因みに、元和四年の『後藤黒乗傳書』で最高は、“上々”としているのが、「“さんばそうの目貫”、“ゑびす大黒の目貫”、“石公長良の目貫笄”、“ケンキウショク女ノ目貫笄”、“鷹之目貫”、“濡烏之目貫笄亦小刀柄以上三色有”」としています。又、「“すひめうくわの目貫”は上の中、“龍之目貫”は中の上、“唐ししの目貫”は中の上、“水ニ龍ノ目貫”は中の上。そして、“右之外色々ノ人形亦鳥類畜類餘多有之 草花ナトハ下位ニ用也”」としています。

こうした事を一応参考にすると、牛などの作を見かけるのが多い理由もわかる様です。

 

さて、(A)を見てください。牛が三匹の図です。赤銅容彫。

(表目貫)タテ=五分七厘強、ヨコ=一寸二分八厘、高サ=一分八厘弱。

(裏目貫)タテ=五分三厘弱、ヨコ=一寸三分強 、高サ=一分八厘。

 

恐らく親子の三匹でしょうが、表目貫には、中央に雄牛がいて、仔牛が左、右が雌牛で、雄牛は頸を仔牛の方へくねらせて、三匹各々の動きを単調ではなく躍動感を見せています。裏目貫でも中央に雄牛を配し、仔牛は右、そして雌牛を左へ配していて、各々の足を表目貫にはない動きで仕上げていて、二個の抜孔もあり、単調とならず、動きも十分みられます。裏行を見ると、圧出もよく、地板も薄目で、少しククリも見られますが、全体的に何となく少々新しいというか、キレイすぎる様な感じがします。これは恐らく、目貫全体、殊に裏行を洗ったためでしょうが、表裏を精査すると、入りくんだ隅々に古い痕跡が残っています。しかし、洗ったとするならこれは犯罪である事を自覚して絶対にやめるべきです。

また足(根)ですが、中央の下側に長方形の角棒状のものがあった様ですが、今はその痕跡のみがあります。支金はなかったと思われます。

製作時代は江戸時代初期頃ではないかと思われますが、赤銅の色も大変良いのですが、全体の形状からは超一流とはいえないように思われます。

 

では(B)を見てください。かなりの大型です。赤銅(色はやや褐色を帯びている)、容彫、目玉金象嵌。

(表目貫)タテ=七分二厘弱、ヨコ=二寸六厘、高サ=二分七厘。

(裏目貫)タテ=六分五厘、 ヨコ=一寸九分五厘、高サ=二分七厘弱。

 

いずれにしても大型でありますが、地板も厚く、従来の考え方からすれば時代をぐっと下げざるを得ないと思います。今迄に大型のものは、何点か拝見していますが、全て地板は薄く、(B)のようではありませんでした。しかし、(B)は厚い地板でありながら、かなりの圧出をやってありますので、迷うのです。又、裏側の中央には板状のものを端から端(上から下)にわたしてありますし、表目貫の中央の牛の頸の付根辺で際端に鑞付の痕跡があります。これは恐らく、目貫が長すぎたために断裂しかけたのを補修したと考えられます。こうした細工は初めてです。いづれにしても(B)の造形は良いと思いますが、何といっても(A)と較べると、その時代性は一目瞭然で若いと思いますが・・・。

因みに、『後藤光信傳書』(正保三年)には、「牛の彫物はうつくしくこえて勢かろくみゆる 田舎彫はほねたかくやせて見ゆる也」とあります。田舎彫とは後藤家以外を指すものと思われ、当然、二流の作位という事をも含めて述べたと思いますが、決して間違ではないと思われます。牛にしましても、雌雄や仔牛がいますので、各々にそうした傾向をもって彫るという事でしょうし、時代によっても絵画では各々に形状の流行があることは既述した事でもあります。
(文責・中原信夫)

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