INTELLIGENCE
♯ 銘鑑=迷鑑?
Copywritting by Nobuo Nakahara
刀の社会でよく『銘鑑(めいかん)』といわれるものがあるが、これは現在迄に世上(書籍・文献等)に現われた刀工銘を単に羅列したものであって、この銘鑑の使い方は、未知の刀工銘を実見した時に、いつの時代、どこの国、系統、生没年などを簡単にひけるので大変便利なものである。しかし、この銘鑑に名前があっても、その実物が全く見当たらないという場合が往々にしてある。
見当たらない名前(刀工名)には2つの可能性があって、第一に現存刀が稀少なものの場合であり、第二に幽霊刀工である場合がある。大体、この銘鑑は今迄に出版された書物にある押型・記述・経眼した作を真偽かまわず羅列したのが実態であるからである。同名で異人、同一人が何人かに分かれていたり、その逆もある。内容的になぜ誤りがあるのかというと、著者が直接、個別の情報に精通していない事であり、編集者(内容について)が我見を入れてしまう事でもある。
戦前から昭和50年頃迄は、銘鑑と言えば『刀工総覧』(川口陟著)であったが、昭和50年以降は『日本刀銘鑑』(石井昌国著)が主流となった。この『日本刀銘鑑』はかなり分厚い本であり、改訂版もあるが、仲々の労作である。この『日本刀銘鑑』が刊行されるかなり以前から私の師・村上孝介先生が江戸時代迄の写本・刊本の内容を刀工別に網羅した内容の本を作るべく長年にわたり専用の用紙を印刷してコツコツとやっておられたのを、昭和49年に私が入門した直後から私が引き継いでいたが、『日本刀銘鑑』の刊行によって村上先生の望まれた内容が少しは盛込まれた内容でもあったから、その作業を中断・終了してしまったのであった。
さて『日本刀銘鑑』は著者の石井昌国氏が某大学生をアルバイトで動員して、整理したのがその実態であって、当然その内容には前述の様々な幽霊刀工や取違えのケースや、代別の間違、喰違は起こって当然である。第一に著者が注意していない点も多く、興味もないし未解明に近い地方刀工なら尚更である。また、膨大な既刊書からアルバイト学生が写し取った分類カードを整理していったのだろうが、アルバイト学生の誤読・誤写が既に入っている可能性は大である。因みに、同書に参考文献・引用文献に記述ありとしていても、それを探してもどこにも記述はなく、往生した事があった。今ならばコンピュータに入力すればいとも簡単に分類作業のみは出来るとは思うが。もちろん、誤のない本は絶対にないのであるから、この『日本刀銘鑑』はうまく活用すべきであって、全てを鵜呑にしてはいけないと言える。
さて、この『日本刀銘鑑』は出版直後に、著者から村上先生に謹呈してきたが、それを私は今だに使用させていただいている。しかし、その後、同じ著者の石井氏は『原拓 土屋押型』なる本を出版された。その本を作る時には、石井氏が度々にわたり、土屋押型の著者である土屋温直のことについて電話で村上先生に尋ねてきた。私がその度毎に村上先生に取りついだのを鮮明に記憶している。その上、しまいには校正刷を村上先生に送りつけてきたが、村上先生は嫌な顔もせずその校正刷を校正し、送り返すということをやっておられた。
土屋温直とは旗本武士で刀好きであったらしく江戸末期に多くの押型を残した。それを復刻したのが『原拓 土屋押型』であるが、土屋温直の履歴なども村上先生がよく調査されていて、巷間に言われている温直の資料以外の内容を、石井氏は単に電話で村上先生から聞き出しただけである。
私が「どうしてそんな情報を簡単に教えるのですか。黙っておいていいのですか・・・」と村上先生に詰問したら、「いいんだよ。どうせ私から聞いた資料・情報とは言わないだろうと始めから思っているから。石井君も注釈人の権威者に御機嫌取りで気を使ったのだろうよ。放っておけばいい・・・」との村上先生の返事に、私は唖然とした。このような寛大な気持を巧みに利用したと言われてもしょうがない著者である。というのは、石井氏に村上先生が教えた土屋温直の情報は未知のものであって、本来なら著者自らが調べる事である。そのやり取りを横で直接聞いていた私には、今もって肝に銘じているやり取りの内容であった。その点、福永酔剣先生は全て自力で調べられた。
私は何十年間にもわたり、福永先生の謹直なる態度を直接見てきたが、今でも福永先生の態度は私の手本、目標でもある。私は足かけ5年間(実際は4年強)村上先生に師事しただけであるが、この御二人の全く違う性格ではあるが、御二人は私の目標・手本となった事は紛れもない事実である。
加えて言うなら、民間人のこうした努力で我々の刀社会も成り立っている事を肝に銘じて、さらに発展させていかなければ、先人に申し訳ないといえよう。
(文責 中原信夫)