INTELLIGENCE
♯ (続)朝令暮改
Copywritting by Nobuo Nakahara
前稿で日刀保の前歴を書いたが、朝令暮改だけではない。日刀保の得意技がある。それは、刀工、刀剣商、刀職に圧力をかけることである。これらの職方には当時から日刀保主催の新作名刀展や研磨コンクールなどがあり、これらの展覧会やコンクールに高位の賞をやらないぞとして、日刀保の犬といっても良い程の態度をとらせるのであった。刀剣商には重刀にして欲しければ・・・といった無言・有言の圧力をかけた事は事実である。
もっとひどいのは、村上とは付き合うなと圧力をかけた事実もあるが、故・柴田光男氏からは当時、日刀保の幹部から同じ圧力を受けたと聞いた。その時、柴田光男氏は「佐藤先生、本間先生には大変お世話になっておりますし、これからもお付き合いさせていただきますし、村上先生とも変らずお付き合いさせていただきます・・・」と言ってのけたと本人から聞いている。
また、日刀保から去った村上先生の事をいうと、辞職するまで毎月の様に贈物を贈ってきた某人間国宝刀工は、それ以来、ピタッと贈物をよこさなくなった。変り身の早い刀工で、権力者にはすり寄るという作刀技術よりはるかに上手い処世術をもっておられたようであるが・・・。村上先生は「世の中、こんなもんだよ・・・」と私には笑いながら言われたのを今だに覚えている。
さて、昭和五十一年七月に村上先生がアメリカのサンフランシスコで審査会を開催される事になり、その日程を『刀苑』誌に発表したら、すぐに日刀保の機関誌『刀剣美術』誌上に英文と共に「この審査は日刀保とは何ら関係はない」との旨の広告を掲載した。興味のある方は当時の『刀剣美術』を調べてください。これを如何に解するか。露骨極まる妨害行為である。因みに、この刀苑社のサンフランシスコ審査は、当時、カリフォルニアのサンマテオ市在住で、戦前にアメリカに移住された湯本正幸氏の支援であり、主審は村上先生、副審は福永酔劍先生であり、私も調書書きという事で羽田空港からハワイ経由で現地入りをした。湯本氏はカリフォルニア刀剣界の指導者で、当時、白人専用とそうでない刀剣会の二つあったと同氏から聞いているが、とにかく同氏はアメリカでの刀剣普及の草分けの人であり、私の大学の先輩でもあった。
以上の様に、この様な事を繰り返して良いはずはない。
現日刀保の指導陣には、もっと日本の刀剣界の実状を仔細に見て、対処していただきたいと望むものである。
(文責 中原信夫)