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♯ 所謂、鷹ヶ峰(たかがみね)光悦村の古地図について-その2

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

前稿では(1)と(2)・(3)が同一物ではないことを、各々に記入された書入や筆写線などを対比をして推測したのであるが、今回は(4)について述べたいと思う。

その前に、前稿で(1)・(2)・(3)の様な地図が何の使用目的で作製されたのかと疑問を呈したのであるが、結果として、光悦没後、この光悦村(町)の住人と第三者の間で年貢や境界争などの紛争があって、その解決のために地図(所有関係)として作製した可能性が大ではないかと思われる。

(4)を説明する前に、この点で少し私見を述べておきたい。

 

(1)・(2)・(3)で目立つのは「口 六十間」や「口 二十間」などとの間口表記が誰の屋敷の前にも必ず書入れられている。(一つだけ未表記がある)これがまず特異である。つまり、京都では間口の広さで課税されたと聞いているので、この間口が一番重要である。

また、(1)・(2)・(3)の各々にも必ずあるが、「他江の田」とか「しば 北山分」、「たかかミね分」といった、当時の土地が各々に細かく領分があったことになり、当然であるが、鷹ヶ峰直轄領分と他の領分とは区別しなければならない。因みに、「しば 北山分」での“しば”は炊事・風呂等に使う燃料のことで、薪や落葉(付火用)などを指すものであり、方言である。つまり、現代の様に電気・ガスがない昔では、この“しば”は極めて大事である。また、北山とは後述の鹿苑寺のことである。

 

さて、元和元年(一六一五年・大坂夏の陣の直後)に光悦は徳川家康から鷹ヶ峰を拝領したといっても、昔からその辺には土着の人間がいた筈だから、それらの人々の領分が必ずあった筈である。拝領なら何も払わないのであったのかというと、光悦は「逆に土着百姓の要求するままに間別一升、計六石におよぶ拝領屋敷の代をさえ支払った」〜「伝統主義の系譜」岡本健一『芸能史研究』第二号・『光悦』(第一法規出版)とある。また、「屋敷代を負担することによって、土着百姓との紛争を回避し、且つ光悦なりの自立精神を充足させたものと考えられる(同書)」としている。

そして、延宝七年(光悦没後42年)に鷹ヶ峰を幕府に返上し、さらに本阿弥光伝(光悦の曾孫・光甫の子)の時代の天和二年には、この地の支配権を完全に失っている。当然、光悦没後からは、ここに移住してきた人々の中には、其後死去したり、生活のため他所へ移った例も必ずある筈で、結果的に、この本阿弥光甫・光伝の時代に周囲の百姓との間に紛争が生じ、寺社奉行への訴訟に発展している。その訴状が光悦寺にあり『本阿弥行状記と光悦』・『光悦』(森田清之助編)に掲載されている。この中には本阿弥光伝が“三十一年支配仕”という文言も二回出てくるし、さらに当時江戸へ行っていた光甫の弟・日允上人(光悦の孫)の名前も見られる。

日允は京・本法寺(本阿弥家菩提寺)の第十八世であり、この事件は大きい。また、光悦没後(光甫、光伝の時代か)に新しく検地が行われたが、その新検地と前からの検地石高が不当で不満を言ったのが、光甫・光伝の支配し得ない土着百姓(前述)であったという。それは、光悦時代の昔の一間の長さとは同じではなく、実際は昔の方が少し長かったようである事にも原因があるとされる。おそらく、光悦没後からこうした紛争が続出してきたと思われる。さらに、『光悦と朱屋田中勝介・宗因』(岡佳子氏稿)・『琳派の創始者 光悦』(河野元昭氏編・宮帯出版刊)では、寛永二十年から正保二年・三年と三度にわたり鷹ヶ峰光悦町(光甫や尾形宗謙)と大北山村鹿苑寺領との境界紛争があったと記されている。この紛争解決には京都所司代や伏見奉行に書付・絵図を渡したとある。したがって、光悦入村時の各屋敷の間口や周囲の土地領有利権を明示した、所謂、証拠書類(地図・絵図)が必要となりはしないだろうか。これが推測ながら私の見解である。

 

さて、前置が長くなり過ぎたが、(4)を見ていただきたい。(4)で重要なのは年紀と筆写人と“光悦”の左側への書入“当時 六左衛門”である。一応、承応三年六月に片岡忠英なる人物が筆写したという前提に従って稿を進めたい。承応三年は光悦没後17年である。では、この片岡忠英は何者かという事であるが、片岡の姓を名乗っているので片岡氏家系(『光悦』森田清之助・大正五年刊)を見ると、「乗春入道ト号ス、本阿弥光悦女くす、法名 妙潤ヲ妻トス忠英事、京堀川村雲屋敷譲=弟左兵衛−而 洛北鷹ヶ峰光悦屋敷之内エ移ル」とある。光悦の父・光二は、この忠英をさかのぼること四代前の片岡治太夫宗春の二男であり、忠英の父・乗信入道(六左衛門)の弟が光瑳(光悦の養子)である。そして、光悦には娘ばかりが生き残ったために、娘“くす”を忠英の許に嫁がしたのである。

したがって、書入の“六左衛門”とはこの片岡忠英であって、光悦は一時とはいえ娘夫婦と同居していたので、娘夫婦は光悦屋敷に居住していた事は事実であろう。そして、“当時”とある書入であるが、これは妙潤(くす)が明暦三年七月四日没(32歳)となっているから、(4)に記された年号(承応三年)の約4年後となる。したがって、“くす”没後の時点以降の「当時」であろうと考えられるが、如何であろうか。そして、忠英の没年がわからないので確実ではないが、その頃はすでに光瑳も没(光悦没後すぐ)し、本阿弥光甫の時代となっていた。光甫は天和二年没であるし、延宝七年にこの土地を返上しているから、おそらく“くす”没後〜延宝七年頃からみた“当時”という書入かと思われる。

ただ、片岡六左衛門忠英が自分の事を六左衛門と書入れるであろうか。となると、承応三年に片岡忠英が筆写したのを、光甫か光伝の時代に更にまた筆写したという事なら「当時」というのも含めて理解は一応出来る。ただし、(4)の右側にある文言については片岡忠英の筆跡とは確認出来ないので、断定は出来ないが・・・。

ちなみに、光悦はじめ光甫に至る代々の当主が優れているのは、片岡家の血が入っているためともいわれ、当然、教養も高かったとしか考えられない。この系統の片岡忠英が筆写したのであるから、(4)の書入には一応信頼をおくべきであろう。

また、片岡六左衛門については、忠英(乗春入道)の父も同じく六左衛門(乗信入道)と名乗っていまして、この乗信入道は本阿弥光瑳の兄であります。

 

さて、先日、調べものがあり、『刀剣名物帳』(辻本直男著・昭和四十五年雄山閣刊)を見ていましたら、名物「有楽来国光」の項に、金二重鎺に“片岡六左衛門”と刻しているとの記述がありました。この有楽来国光は織田信長の弟・長益(有楽斉)の所持であることは有名です。この有楽斉長益は元和元年十二月、七十五歳没ですから、その後、おそらく何らかの理由で片岡六左衛門の所持となっていたと考えられ、この有楽来国光は名物帳によれば、「光甫取次、利常卿御求」とありますから、本阿弥光甫が抱主の加賀前田家三代目・利常に買い上げてもらった事になります。

では、この買上時期はいつ頃か、利常は慶長十年から寛永十六年迄は藩主であり万治元年に六十六歳没。本阿弥光甫は慶長六年生れで天和二年没。すると光甫が父・本阿弥光瑳に代わって当主になったのは寛永十四年(光瑳が寛永十四年没)からと考えられますから、当時36歳頃となります。となると、寛永十四年十月(光瑳没年月)から寛永十六年頃までの間の買入と一応限定出来ます。

 

それにしても、この鎺にある“片岡六左衛門”とは当然、光悦の娘くすが嫁いだ人である事は、この推測から一応決定してよいかと思われます。つまり、この乗春入道六左衛門忠英の父・乗信(同じく六左衛門と名乗る)入道では少し年代があわないと推測しました。光瑳も茶人でしたし、当然兄の乗信入道も茶人だったと考えられますが、この片岡家というのは、かなりの財力があったという事になりましょう。系図的には室町中期の京都所司代・多賀豊後守高忠の系統とされています。

因みに、片岡家は近江国京極氏の重臣と云う。また、片岡家は銭屋を号して、光悦町の年寄を勤めていた事実もあるとされ当然、教養もあると考えられますが、何とも資料不足で調査も不足ですから、手の出しようがありませんので、この点を良く知っておられる方や文献を是非御教示賜りたいと存じます。

 

それと、同じく『刀剣名物帳』の名物・夫馬正宗の金無垢二重鎺(埋忠鎺)には、その台尻に「片𦊆権六」と刻してあるとの書入があります。夫馬(ふま)正宗は前田利常が光甫に命じて処分させた短刀であって、前田家に入ったのは寛永十四年以前という事が限定出来る。したがって“𦊆”を岡と訓めば片岡権六はそれ以前に存在した事になる。この夫馬正宗は前田家を出て以後、加藤式部家蔵となっている。その夫馬の名は、織田有楽斉長益の次男・雲正寺頼長の組玉薬奉行の侍とされる者の持物という事での命名。『埋忠銘鑑』には「金具 寿斉 仕候 夫馬(間)甚三郎殿」とある。因みに『埋忠銘鑑』の書入の「金具」とは鎺を指す。ただ、『名物帳』には夫馬甚次郎とあるが、何らかの間違であろう。

すると、この夫馬正宗と有楽来国光との共通項は織田有楽斉長益となり、片岡家と織田家あたりとの関係がポイントとなろう。殊に、鎺に字を刻するのは鎺の製作者名ではなく、まず所有者名と考えられますので、二つとも同じ片岡姓ですからこの「権六」は片岡家の一人と推測できます。もし、片岡家と埋忠家との交流があるとすれば、第一に本阿弥家が介在する可能性が大ですし、逆に本阿弥家以前からの交流も先祖から考えれば十分可能性がありましょう。

さて、寛永十四年頃に存在していた片岡六左衛門忠英は、いつ頃まで生存したのか。本阿弥光甫の弟・日允上人が片岡六左衛門に宛てた消息文があるようで、この日允上人は元禄五年没ですから、その頃の少し前まではまだ生存していた可能性が大であります。

 

さて、(1)・(2)・(3)について従来から全く指摘されていないが、各屋敷割の当主名の内、光悦直系や光悦本人との交遊が強かったと思われる本阿弥系の人物には、本阿弥という姓は記入していない傾向にある。逆に、分家筋の本阿弥一(市)郎兵衛(光怡か)・本阿弥十郎兵衛(光由か・元禄二年没)のみならず、本家(宗家)三郎兵衛(光室か)でさえもわざわざ本阿弥姓を付加している。これらから推測出来るのは、(1)〜(4)までの図は光悦直系である人物の立場と見方による作製と考えるべきであろう。〈(F)・(G)・(H)・(I)・(J)を参照〉

では(4)と(1)とは同一物かというと、もうおわかりの様に全く相違する。これは光悦屋敷の書入を見れば他所を比べなくともわかる。つまり、(D)を見ると、(4)の書入「口 六十間」として屋敷の中央に書き始め、その中心線の右に“光悦”と書入があり、中心線の左側にやや小さい文字で中心線際に“当時”と書き入れ、少しズラして一段下げたうえ“六左衛門”との書入である。これは明らかに同一人の筆跡と思われ、当時六左衛門と最初から書入れするつもりでのものであり、墨色も良く、書体も相当能筆である。この(4)にある「当時六左衛門」はじめ、他の書入の書体は、全く自信はないが、どうも本阿弥光伝ではないかとも思われる。ただ、(G)・(I)での(4)にある本阿弥姓は三郎兵衛・一(市)郎兵衛や、(B)での(4)の又次郎でも「本阿ミ」と書いているのが、前述のように興味深いし、(1)・(2)・(3)では「弥」は「ミ」とは書いていないのも興味深い。

それから(D)をみると(4)には南北に「光悦町通すし」との書入があるが、“光悦町”なる表現は光伝の訴訟書類におそらく初めて出てくる呼称かとも思われる。また、(4)では「光悦拝領略図地面」とあり、略図の地面図という事であり、従来から私達が思っていた古地図という感覚ではなく、もちろん、ユートピア、職人村、工芸村を紹介するガイドマップでもない事は確実である。

 

では、今までに紹介した(1)〜(4)図の中に原図がある筈、というか原図ではなくとも原図に限りなく近い図はというと、不鮮明な写真ではあるが前稿で既述の通り(1)であろうと思う。しかし、(1)と(2)・(3)は本来同一物でなければいけないのに、そうではない。となると、(1)を筆写した写が複数枚以上あると考えるべきであるから、やはり(1)が前稿で述べたように現状では原図という事になるし、一番可能性が高いと言わざるを得ない。

また、(1)〜(4)で共通しているのは各居住人の名前であって、各図でも一切変っていないという事は、一番不審であり、また、大事なことである。所謂、光悦入村時の最初の縄張的な性格を全面的に持ったのがこの(1)であり、以後、ずっと(1)を写し続けたという事になるし、さらに推測すれば、(1)・(2)・(3)と(4)の間に同様の「写」があった可能性も浮上してくるのである。

ただ、(4)はインターネットに掲載される前にコンピュータによる釈文書入がなされていて、その書入が見にくく、また、誤読もあり、本欄に掲載した(4)はそれらを除去したものであり、(4)を後世の捏造ではないとの一応の前提で論じた事をお断りしておく。
(文責・中原信夫)

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