INTELLIGENCE
♯ 印刷-2
Copywritting by Nobuo Nakahara
印刷の事を前に書いたので、今回も印刷に関して少し。
私が印刷の校正を我流でやれるのは、師・村上孝介先生の『刀苑』誌の校正を手本にしたからである。昭和五十三年まで刊行された『刀苑』誌を印刷していた三協美術印刷の初代社長で創業者の故・菅生定祥さんは、戦前からの生え抜きの方である。
この菅生定祥さんは戦前の中央刀剣会の機関誌『刀剣会誌』を印刷しておられた時があって、村上先生とは長年(といっても実際は戦後から)のつきあい。したがって、私も『とうえん』を第二号から三協美術印刷にお願いをし、『刀の鑑賞』や『大分県の刀』(正・続)、『本阿弥家の人々』も同じ三協美術印刷さんにお願いした。
昭和五十二年頃と記憶するが、村上先生と菅生社長が『刀苑』誌の印刷上のことで意見が対立した。
それは押型や写真版の仕上りが気に入らないと村上先生が言われたのに、一本気の菅生社長が「それなら、一つ一つ製版代金などと代金請求を出さないで、毎回定額料金で印刷します!」と言って、お互い一歩も引かなくなり、結局、毎回同一の印刷代金ということにして、その当時、確か50万円くらいであったと思う。
これを聞かれても、本欄の読者の方には全くピーンとこないでしょう。それは、当時は活版印刷で、押型や写真は別に製版して活字を組んだ一頁分の中に入れてくという、今では考えられない程の手間がかかった。その製版代も銅製版というもので後に亜鉛製版に変ったが、別料金で金のかかる代物。従って、押型や写真版が多くなると印刷代はすぐに上がってしまう。であるから、雑誌の内容によって毎回印刷代は変るのが本当なのであるが、それを口喧嘩の末、全て同じ印刷代としてしまった。二人とも個性の強い人達であったから、傍で見ていた私は何となく面白いというか、表現しにくい感じがあった。
その押型の製版であるが、一枚の板(銅製)にエッチングの様にする訳で、上手下手があり、製作過程で青酸カリを使う。この青酸カリを当局から厳しく規制されたため、仕上りが悪くなった事も二人の口論の原因。ただ当時からオフセット印刷はあったが発行部数の少ない雑誌には不向きな大量印刷であった。
しかし、活版印刷にも上手下手があるのであるが、文字の各々の仕上りには力があり、文字の一つ一つが活きていた様に思うのは私一人であろうか・・・。
(文責・中原信夫)