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INTELLIGENCE

♯ 日刀保の素顔・その2(苦難の船出と官主導の弊害)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

日刀保がどんな目的で設立されたかということは、案外知られていないので簡単に書いておく。

つまり終戦後、刀が憎し、ジャップ憎しのみで日本に進駐したヤンキー兵による優越感を持った武器狩の主たる目的の刀への憎悪に、日本はなすすべがなく、当時の終戦処理を日本・アメリカ双方から一手に任されていた、大本営連絡委員会(俗に有末〈ありすえ〉機関と云われる)の一員であった、浦 茂(うらしげる)氏の尽力で、昭和二十一年十月にやっと刀の審査権を進駐軍が完全に日本に渡した。

 

そうした運動があり、大同団結しての日刀保の設立であり、その裏に戦前の日本にあった刀剣全会派、つまり本阿弥系、日本刀剣保存会、中央刀剣会、築地刀剣会などの派閥を一つにまとめ上げて、刀の保存と普及を促進するためであった。

私の師・村上孝介先生は本阿弥光遜先生側の一人として、宮形武次(光蘆)氏と共に理事として入った。昭和二十一年十月以降は日本側に刀の件は任されたことから、当然、当時文部省の役人であった本間順治氏が主導しての流れとなったのであり、赤羽刀審査と処理もその流れの一つ。

 

日刀保の初代会長は細川護立氏となり当時の政治家もその組織の上部に並んでいた。また、財団法人設立であるから、一番手っ取り早いのは国(文部省など)、東京都の担当部所の役人を丸抱えにし、さらにそれらの役所にニラミのきく政治家を丸抱えにする。これが一番の早道で、丸抱えにした役人達に定款を作成させる。当然であるが、役人が作った定款を役人が審査するのだから、落度・欠陥は全くない筈で、又その様に作った筈である。

このようにして、ベスト(大同団結)に近い陣容で日刀保は一応船出をした。しかし、しばらくして重要な人材として入った人達が、一人抜け、二人抜けとして日刀保から去っていった。

 

その原因には色々と個人的にもあったと思うが、主たる原因に協会の運営と審査に対する本間・佐藤貫一氏などとの考え方・鑑識に対する決して埋めようのないミゾがあった。それと一つ特筆すべきことは、終戦後の大混乱という条件があるにせよ、かくも日刀保が力を持った最大の原因に刀剣商の存在がある。

この刀剣商達は重要刀剣なる打出の小槌ならぬ黄金の小槌を本間・佐藤氏と連理の翼よろしく都合良く打ち振るって、上昇してきた経済力と共にそれらの力が最高潮になっていったのであるが、当然の如く、不合理を生じさせ、こうした偏向は真の愛好家からも見放されていくことになってきた。したがって、今の刀剣界にはこうした愚を二度と繰り返してほしくないと願っている。
(文責・中原信夫)

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